葛飾北斎の「虎と龍の図」

   昨晩のNHK北斎の龍虎図を使ったクイズ番組が再放送されていた。初回のときも違和感があったのだけど、今回少し考えてみた。実は龍図の方は長らく行方不明で日本では虎図しか知られていなかったのが、フランスのギメー美術館の蔵で対の龍図が見つかって、今日本に里帰りしているという。そしてテレビでは阿形の虎図を向かって左に、吽形の龍図を右に飾って「龍虎の見合い図」として展示していた。
    そしてクイズの一つで、虎図の落款が図の向かって右にあり、龍図のそれが左側にあるのは、慣例に違反しているとことが紹介されていた。結果の解説で、その理由として北斎が「型破りの自由人」だった説明された。
    だが、いくらなんでも対の掛け軸の並べ方に関する規則を破ることに意味があるとは思えない。これは常識で考えるなら、テレビの見せ方とは反対に阿形の虎図を向かって右側に並べることを北斎は想定していた、と考えるべきではないだろうか。だがそのように並べられれば、龍と虎がそっぽを向いているように感じられて室内の建具の一部である掛け軸のありようとしては異常である。だからこそ北斎は描いたし、それゆえに掛け軸対は市場価値を得ることができなかった。そう考える方が北斎の天才性、あるいは前衛さが現代の我々のような非専門家にはよく理解できる。
    それでは、何故北斎は龍虎図を「見合図」ではなく「そっぽ図」として描きたかったのだろう。
    (1)狛犬の場合は一応阿形が向かって左ということになっている。だが、今までにそのような配置のもので、そっぽを向いている狛犬を見かけたことがある。webで調べていくと、典型例が宇佐市の高野堂の写真にあった。となると本来は阿形の方が向かって右にあったのが、どこかで逆配置された可能性は限りなく大きくなってくる。そうなった時には、徳川の紋がその辺にある三出葉、通称<葛>ではなく、フタバ葵であることを知らない民衆の方が、そういう妄想にとらわれやすいはずだ。
http://kazekobo.cool.ne.jp/nioh/koya.htm
     (2)仁王像の場合は阿吽が法隆寺東大寺で反対におかれているから、どうっちでもいいとなる。
     (3)日光の陽明門では仁王と宮廷武人が門柱ごとにセットになって阿吽とやっているから、これもどっちでもいい派。
     (4)北京の紫禁城の獅子像は左右とも阿形で、向かって右が、<玉ぎょく>を押さえてつけているので皇帝とわかる。



■感想    この対図は晩年の作という。1849年の没年の10年前には異国船焼き払い令をめぐって蘭学者高野長英渡辺崋山らが投獄されている。もう<地球は丸い>というグローバリズムが江戸市中でも、わかる人にはわかる時代になっていたのである。同時期に神道の民衆化ともういうべき天理教が奈良で発足している。だとすれば〈虎と龍とのそっぽ図〉の解釈はかなり単純だ。
     虎は太平洋を越えて中国もこえて、恵みの雨をもたらす龍神と対している。
     その二つの背中に挟まれた日本国の将来を寿ぐものである。これが第一の意味となるしかない。
     だからこそ、神仏分離令を出した維新政府にとってはトンデモ芸術だったのであろう。日本古来の神はアマテラス男神でなければならなかったのだから。神仏習合の再評価の機運と共に「龍図」が里帰りしたのは偶然ではないだろう。


■雷神      気になって俵屋宗達の有名な屏風図をチェックしたら、風神と同じに阿形で、向かって左にいて顔は風神と見合っている。雷神は、牛の角をもち、虎の皮のフンドシをまき、太鼓を持っているらしい。雷神は天神宮に祭られる菅原道真公にも擬せられても来た。一方の風神は『ウィキペディアWikipedia)』によれば、中世では農作物に害をもたらしたり、風邪などの悪い病気の原因に擬されてきている。とすれば江戸時代初期には、向かって左が貴、右が卑というメタファが定着していたということになる。北斎の対掛け軸は、その卑しい〈右〉へのエールともとることができる。

■「虎と龍の図」   見出しと本文中で使ってみたのは音読みの「龍虎図」との違いをはっきりさせるには逆語序対にしておく必要があると思ったからである。これで「風神・雷神」とも語順がそろう。最初に出てくる音韻の意味は〈卑〉、図像では〈向かって右〉。

■正位     江戸以前のことを考えるときには、現在の<北・up>の思い込みを一旦、離れる必要があるのをすぐ忘れてしまうが、天皇や将軍だけでなく名主など、一族郎党の主は南に向かって座るのが正であるから、記憶の中の「風神・雷神」「虎と龍の図」とも、雷神と龍は東方にいることになる。とすれば虎がにらんでいるのは中国の向こうの西洋ということになる。(07/05/14)