「僕が、継いでいく心」

     五ケ月ぶりに新宿の地下道を通ったら、読売新聞社による伝統文化支援広告の上記題名のコピーが依然として飾ってあった。以前にもひっかっかっのだけど、今回少し考えてみた。子供の歌舞伎役者の顔写真と共におかれたコピーであるから、当然、子供の気持ちを表現しているととるべきであろう。だが、「僕が、」の読点にひっかっかたのだ。
    これを full sentence にすると以下で、さらに従属節を独立させるには二つの可能性があるが、ここは歌舞伎の世界についていっているので、写真の子供には「継がない」という選択肢はない。つまり親の「こいつが継ぐ」という例示文由来の文型しかありえない。
 ・僕が継いでいく、伝統の心を (皆さんも一緒に大事にしてください)。
 ・僕が継いでいく。
 ・僕は継いでいく。(非文)
     さらに、構文文法の約束から言えば、これは体言止で、主語は「心」。だが読点を入れたことで読み手に「僕が主語」と、一瞬錯覚させる。こういう表現が広まれば、「は」は句読点を超えていくのに対し、「が」はすぐ次の詞にかかるという大野説も三上説も、過去の規則になる。一方で、〈がテン〉が〈バッテン〉同様、古来よりパターンとしてあったのだ、と考えてみる価値はありそうにも思えてきた。つまり、<が>を軸にした逆語序対がある時期のある方言では機能していたのではないかと仮構してみるということである。例えば。

判別文;春は、曙がいい。(春バッテン曙がいい)
枚挙文・春は曙が、いい。(春バ曙ガッテンいい)
判別文・象は、鼻が長い。(象バッテン鼻がながい)
枚挙文・象は鼻が、長い。(象バ鼻ガッテンながい)

    枚挙文の使い方はデカルトの『方法について』にもあるように以下で、これは実務に携わる民衆も絶えず思考回路の中で運用してきている。これは言葉遊びとしても現在でもよく使われている。現在、「は」「が」とも、連体句の中では「の」に収斂しているのは、こういう文型の対が機能していたからであろう。
 ・いいものならva、春の曙
 ・いいものならva、食うウナギ。
 ・いいものならva、二日酔いの時のコーヒー。

 ・長いものならva、象の鼻
 ・長いものならva、蛇の体。
 ・長いものならva、あそこの縄がいい。

    ところが、この文型に〈今、ここ、私〉を代入すると枚挙文は非文となる。これが直示文を三つの「詞」を使って表現した古式正しい形式の特徴になる。

こと 判別文;今は、曙がいい。(今バッテン曙がいい)
  非文;今は曙が、いい。(今バ曙ガッテンいい)
  例示文;今が、曙がいい。(今ガッテン曙がいい)
こと 判別文;ここは、曙がいい。(ここバッテン曙がいい)
  非文;ここは曙が、いい。(ここバ曙ガッテンいい)
  例示文;ここが、曙がいい。(ここガッテン曙がいい)
こと 判別文;私は、曙がいい。(私バッテン曙がいい)
  非文;私は曙が、いい。(私バ曙ガッテンいい)
  例示文;私が、曙がいい。(私ガッテン曙がいい)


     しかし、一方で〈曙〉の原義は〈こと〉であるが、〈横綱の曙〉は〈もの〉なので、その代入文は意味が違ってくる。以下。

もの 判別文;今は、この横綱がいい。(今バッテンこの横綱がいい)
  枚挙文;今はこの横綱が、いい。(今バこの横綱ガッテンいい)
  時勢文;今が、この横綱がいい。(今ガッテンこの横綱がいい)
もの 判別文;ここは、この横綱がいい。(ここバッテンこの横綱がいい)
  枚挙文;ここはこの横綱が、いい。(ここバこの横綱ガッテンいい)
  準時勢文;ここが、この横綱がいい。(ここガッテンこの横綱がいい)
もの 判別文;私は、この横綱がいい。(私バッテンこの横綱がいい)
  非文;私はこの横綱が、いい。(私バこの横綱ガッテンいい)
  主観文;私が、この横綱がいい。(私ガッテンこの横綱がいい)


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