女王ネフェルティティの左目

      昨夜のテレビで見たのだけど、砂の中から発見された彼女の彫像の左目は真っ白だった。『ウィキペディアWikipedia)』によると右目は石の象嵌なのに左目は彫った跡もない未完成品という。テレビでは、その後彼女の治世そのものが義理の息子によってほぼ全面的に否定され、多くの石の記録が破壊され抹殺されたと言っていた。だとすれば、発掘された彫像は多くの専門書が規定するような〈未完成品〉ではなく、〈のろいの人形〉であったという解釈も可能だ。
       こういう考え方は〈イザナギの左目〉の呪縛に未だに、とらわれている日本人にしかわからないとは思う。
        だが、シュメールも中国も古代の帝王像は向かって右に男子の皇帝を置いている。互いに見合っている男女対では皇帝の左目が民衆に向けられる。だとすれば皇帝のシンボルは左目となり、左目のないネフェルティティの彫像は、決して王にはなれない、あるいは王としては民衆の前に出るべきではない、彼女の象りとなる。
      それでは、何故、王の左目が大事なのだろう。
      それは、<イザナギの左目>のメタファを明らかにするということでもある。
      ここ二年くらい、この問題を考えているのだが、わからないできた。だが、偶然にも数日前から鳥居礼という人の『秀真伝』の解説書を読んでいて、見事なまでに〈左目・左回り・左手〉が組みになっている図表を見て、やっとひらめいた。

左目と対になるのは右手あるいは右半身

      学校理科では、現在の最新脳科学が脳の左半球と右半身が対応していることを明らかにしたことになっている。だが、古代には、そういうことは少なくとも王とその周辺にいる神官にはわかっていたはずだ。なぜなら、彼らは戦争や狩で致命傷を負いながら生きながらえた人々にどのような身体障害が残るかを観察する機会が豊富だったからである。
      とすれば答えは簡単だ。
      イザナギの左目から出た<天照>は優秀な頭脳と、それがつかさどる右手による剣の支配を象徴する。
      反対に、右目から出た<月読>は左半身にある<心臓の鼓動>を含むあらゆる自然界の繰り返されるリズムを象徴する。