聖母子像

   気になったので、ダ・ヴィンチと中世の聖母子像を家にある美術全集でチェックしたら、ずべて、聖母マリアが向かって左側であった。間に出てきたアダムとイヴの絵では当然、アダムが向かって左側。
    女王ネフェルティティの時代はかなり男権が大きくなっていて、国王は原則男系であったが、女王は「神の妻」ということで神の子である国王に対して「母」というイメージを重ねていたようだ。
    常識からいって、古代からも現在も、確かなのは母子関係であって、父子関係などは信頼関係を基にした類推によってしか実在できない。それをどのように確かにするかという努力の歴史が<腹は借り物史観>の発展・発達の歴史といっても言い過ぎではない。そのためには中国は宦官の制度を2000年近く維持してきたわけだ。それは神の実在を確立するのと同じく、専門職集団の厳かで晦渋な理論体系を必要とする。
    結局、人類史のある時期に、絵画が儀式や支配の道具として重宝になったわけだが、その時期は線刻画の時期であり、シンメトリックな図像が一世を風靡したのであろう。その時に向かって左側が女性、右側が男性というスタイルが確定し、シュメールでも中国でもひろく用いられるようになっていったのであろう。その時期は右手の剣と対をなす左目が重視される時期と重なるはずだ。つまり男権がかなり確立した時期である。
    その絵を基に王の母と王の后のイメージが重なって図像としては定着したのであろう。
    だが、少なくとも中世のキリスト教会は、母と女の分離を不可欠と考え、聖母子像の様式を現在ある形式に確定した。

それが鉄砲と共に日本に伝来したわけだ。

    勿論、中世以降は中国も、日本も、公式の場面で王が皇后を同席させて臣下と対面することはないのだが、私生活では男女相対しないわけにはいかなし、何より男女和合は家や国家の安泰に欠くべからざる道徳である以上、それを図像として民間に普及することは不可欠の事項であると考えた人がいても不思議ではない。いや、支配者たるもの、そういう細事にまで目配りができなければ人身掌握は無理である。お馬鹿とそしられても仕方あるまい。
    つまり、わが国にふさわしい母子図と夫婦図の分離が求められた。
    そこで問題になるのが、イザナギの左目であろう。結局古事記をひっくり返せば、西洋と同じく、向かって右に座る天子とは神の子を意味することになる。だったら神の子ではない征夷大将軍以下の一般男児は、その左手に女を配するのが正統な図柄となる。
    だが、今までに道祖神などでおなじみになっている「男の右手に支えられる女」をいじるのは無理がある。とすれば母子像を反対にするしかないであろう。母子像とはなにか。それは時間軸である。つまりは<始まりと終わり>である。勿論仏教はこれを<輪廻>として<一>とみなすのではある。だが、世の中の実用から言えば何事も<初めがあれば終わりがある>のである。秩序とはそういうものであろう。とすれば政治体制が変わったことを世に知らしめる上でも<阿吽>を新しい様式で普及するのが一つの策として考案されたのは理であろう。
     ここにおいて時間と空間の分離という近代の図柄が、わが国に導入されたのである。
     もちろん現実の生活では「師の影を踏まず」を援用して「夫の後ろにただ、ただ従う妻」も世上喧伝されていったわけだ。そして将軍の正妻の住まいは「北の政所」から「奥」へとさらに見えないところに追いやられたのである。とにかく公の席で男女が並べば因習どおりなら女は母を意味してしまうことがわかったのであるから、それは〈腹は借り物史観>の綻びの始まりとして警戒しなければならなかったのであろう。