男女神と〈夫婦めおと〉

イザナギと左右関連の続き。
以下の仮説も悪くはないが、新説を。
http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20060924


       御柱と男女神と人々の三者の位置の設定の仕方によって、〈主ぬし〉と〈主あるじ〉を識別することができることに気づいたのは武家政権ではなく藤氏かもしれない。当然それには平安密教が絡んでいたはずであるが。
      根拠は、以前〈主格〉には四つの読み方が可能であると書いたことがある。〈ぬし〉〈おも〉〈あるじ〉〈しゅ〉の四つである。その後古語辞典を見ていたら〈あるじ〉という読み方や語彙は源氏物語に出てきていた。とすれば藤氏の家長が〈あるじごと〉をする時にあえて、天皇とはことなることを強調するために正妻を自分の左に置いたことは十分考えられる。そうしておけば天皇よりも華美な生活であっても、あくまで人間でしかないとへりくだって見せることができる。
      もう少し具体的に書くと男女神は御柱の向こうに座して、人々は柱のこちらから姿を捉えるように、まず考える。その男女神が右回りに御柱を回って人々と御柱の間に座す。そしてさまざまな神への儀式を行ってから男女神は個々に回れ右をして人々に対するようにすれば、今度は男の人の左手に女の人が並ぶようになるわけである。今度は人間の代表として人々に対するのである。

    あるいは、もっと単純に天皇の母が天皇の右手に座を占めれば后は左手に座すしかなかったのが、江戸期に理論武装を完成したのかもしれない。


    いぜれにせよ、日本語では左右は、そのままでは使いにくく、〈向かって〉をつけないと意味が通じない。それに比べて〈右回り=時計回り〉の方が「日本を取り巻く龍の図」が平安時代以降江戸期を通じて同じ向きなので、イメージしやすい。それでも〈時計回り〉の方が安心して使えるというのが実感だ。