龍は左回り

    なんとなく日本を取り巻く龍図を見慣れてしまって、古事記の〈右回りが正しい〉とか、四国八十八箇所めぐりの絵図が頭には入っていると、〈伊勢→宇佐→キエ→鹿島〉という回り方が以外が思い浮かばなくなる。だが、素直に図を見れば、龍は左に回るしかない。
       とすれば、二つの解釈が可能になる。
相対主義的解釈、あるいは時間の矢
       ここでも神代と人代では正逆が入れ替わっていると主張していると、とることである。それは有史以前は<雌雄>ではなく<男女>や〈夫婦〉が正しかった時代があったのではという妄想を呼び起こす。すなわち<男おとこ>〈夫おと〉が〈卑〉で、図では向かって右側に置かれていた時代があったのだと。
      結局のところ、イザナギイザナミのニ神はアダムとイヴに比定できる。つまり、人間という現象ではなく、雌雄という存在認識が確定したときから、神代ではなく人世が始まったという含意を読み取らざるを得ない。そうすると、古事記の時間構造は少なくとも5世代との結論になる。以下の音韻を注意深く見ればわが国における天皇人間宣言は何度も繰り返されてきたことがわかる。

古事記 御ミ   一人神(雌雄未分化)→
  ギ・ミ   イザナギイザナミ(雌雄の確定)→
  ヌシ   大国主(神権政治)→
  かむやまといわれヒコ   神武(吉野朝廷以前の国家体制)→
  あめのぬなかはらおきのまヒト   天武(日本国の確立)→
古事記 やまとねこあまつひつぎイヤテラス   桓武(大和朝の確立)→


■絶対主義的解釈、あるいは輪廻する時間
      上の相対主義的解釈は、日本文化の伝統である。良いときは良いが、メチャメチャになるときはメチャメチャになりやすい。当然、世の中には、相対があれば絶対もある。それが物理帝国の国是である。絶対主義によれば、大事なのは〈静止する龍の頭の方向〉ではなく、〈龍の回転運動そのもの〉の運動方向。それは左に回っている。雨の日も雲の日もである。これは、学校理科の拠って立つ〈ガリレオニュートン神が地動説〉、という前提からは導くことができない。だが多くの研究が古代ギリシャには地動説や地球説があったことを明らかにしつつある。