修験道と身体性

  今まで、日本史の中でわからなかったのが、この「修験道」というキーワードだったのだが、偶然本屋で『石の宗教』という学術文庫を見かけて、読んでいろいろなことがわかった。著者は「五来重」。柳田國男の娘婿の堀一郎と若い頃からよきライバルだったという。
   もちろん、これでは何のことかわからないであろう。
   堀一郎国学院大学へ、そして五来重大谷大学へ勤務した。これでわかる事は柳田の科学性を継承したのが「民俗学」であって、息子たちが継承したのは「宗教学」だということだ。あるいはナウマン女史の言うところの若い頃の比較対照学から必然的に導かれるのが「さまざまな観念や習俗に発現している宗教的思考」、つまり内的歴史の再構築だとすれば、柳田の場合、宗教は息子たちによって担われ、そして隠されてきた。このことを宣長に比定していえば、科学としての日本語が息子によって、つまり正統な宣長学として継承され、国体問題という宗教に限りなく近い領域は弟子によって継承され、一度は忘れ去られた、と見ることができる。



   修験道がなぜ、江戸幕府によっても、明治政府によっても公然隠然疎まれてきたのかについて五来の説明には敬服して、得心した。それは身体をめぐる近代と古代の対立だと私は理解した。ここで身体といってもわかる人にはわかるが、普通の人にはわからないはずだ。
   私が身体という語彙を理解するためには『心のなかの身体』に出てくる「繰り返される身体経験」という句による定義を必要とした。ことほどさように現在の日本語な中に出てくる二字漢字語からは時間の要素が欠落してしまうのである。現代では、「身体」という語から、まず目に浮かぶのは「臓器や臓物の寄せ集め」でしかない。死んでいても身体は存在できてしまうのである。
   だが、五来の言うところは、身体とは「死ぬ事と隣あわせ」のものである。それは、逆に言えば、隣であることは違うということなのだ。一方で、死と生が限りなく近いとすれば、それは自殺の肯定にまでつながるな生命観であり、それはインドや中国の仏教も持っていたものだという。あるいはそれは退廃と隣り合わせの価値観であり、それをもとに、どのような「中庸」を実現するのかが宗教史そのものといえるということだ。

    ここで五来の時代よりは、はるかに西欧の文物にたくさん触れている我々ならば、キリスト教における異端の一つが、苦行に対する評価と不可分であったことをすぐにも思い出すことも書いておく。その典型が『ダ・ヴィンチ・コード』登場する「オーパス・デイ」。