「らぬき言葉」と〈書類 mood〉

     私が地域の日本語ボランティアを始めたのは、「らぬき言葉」問題がかしましくなってきた頃で、会でも結構神経質な人がいて問題になった。そういう人にとっては「どうにも我慢ができない」らしかった。私自身は自分でも出てきてしまうし、テレビを見ていて、不愉快になることもなかったので、外国人にまで規範を押し付けることはないんではないか、と思っていた。 
     そのうち小松英雄氏の著作などが公刊され、こだわらない派が多数になっていったのだが、そうなるとかえって気になってきて、考え出すと、本当に正しいのがどれなのか、不安になった。ようやくわかったのは、私の場合、どうも「書類mood」というのがあって、そこに入ってしまうと「らぬき言葉」は出てこないが、そうでないときは「気にならない」ようだった。というのが結論となって、私の中ではやっと一件落着となった。
     結局、私の場合、30年近い会社員時代、現場に近い開発研究所に15年、本社で書類を毎日毎日書いていたのが15年と、だいたい半分ずつだった。後半が書類書きだから、脳の一番上層に「書類語」が入っているわけだった。そしてその下にある「現場語」は静岡が登記上の本社だったせいで横浜訛りの「あたい」「〜じゃん」と、東海弁の「おらっち」「そうずら」が飛び交っていた。となれば「らぬき」など気にしていられれなかったのであろう。もちろんそういう人たちも本社から部長さんがきたり、本社の会議室では「お国ことば」を口にすることはなかったから、当然本社だけでサラリーマン生活を送っていれば私も、規範国語に鋭敏な退職者になっていたのだと思う。
      以上の事実は今後とも増え続けるであろう「ものいう退職者」の大部分が「本社語」または「書類語」を規範国語として生きてきた人たちだということに注意する必要を喚起する。それは現場から遠い人たちの規範言語であるわけだから、とりわけメディアでかしましくなる正しい日本語論に対して、一定の距離をおく必要があること導く。そうでないと日本人と日本語はますます現場から遊離していってしまうだろう。
      それで、先月、意識的に「オラ」という語彙を使ってみたのだが、、宮仕え時代の私はこの語を使ったことはない。だが「私」を使うとどうしても「私は」「私が」と続いてしまって、「助詞ぬき」にならないので、「オラ」を使ってみたのである。それでも長い文節だと「が」が入ってしまう。「オラは」も、当初は歌詞「オラは死んじまっただ」の影響で「は」が入ってしまったのだが、2、3回、意識して使わないようにしていたら、出てこなくなった。だから、「助詞なしのオラ」は、書類moodの時に使っていた「私は、」に近い語なのであろうと考えている。
      このことをもう少し分析的にとらえると、〈wオ・yウ・wyラ〉〈オラ・ウラ・ヰラ〉の時代を経て、〈オレラ・ウヌラ〉〈オレ・ウラ〉などの時代がきて、そのうちに、佐賀弁に残る〈バッテン=va〉がついた〈オレラva・ウヌラva〉が〈よそ行き語〉や<公式語>〈公衆語〉として定着していったのではという筋道を仮構することができる。それが、文法規範や〈書類mood〉の、民衆への一層の浸透により、文型〈オレは、〜。〉〈オラ、〜。〉が現在繁茂中、というところではないかと考えた。
      結論に飛ぶと、「オレ」「アタイ・wアタシ」にはジェンダーが固着しているので一般文型には使いにくい。だから〈書類語・私は〉の代わりに使うとすれば、ジェンダー・フリーの「おら、」が〈オレ・私〉よりは使いいやすかったのではないかと、今考えている。
■mood と mode
mood: the way you are FEELING at a particular time:
mode: a particular way of DOING sth ; a particular way of sth:
(OXFORDの英英辞典の第一項)


・現場 mood と書類 mood
・現場語と書類語:現場 modeと書類 mode