「同じと一緒」

       9月5日は所用で外泊した。することもないので、ホテルのテレビを見るともなく見ていると上記の題の言葉の薀蓄番組が流れてきた。こういうのを不可抗力というのであろう。内容が前日の例えば「こんにちはの丁寧語は?」であれば、そのまま見過ごしのだろう。だがその夜の言葉は認識にかかわる用語であった。さっそく私の中のオッカムの剃刀にゴツンとした。剃刀に当たれば血が吹き出るのはいたし方がない。私にとっても不幸な出会いであった。だが、ぶつかってしまった以上、相手から血が流れなければこちらの刃がこぼれ落ちるしかないのである。戦うしかない。
      番組は、この二語を比較対照していた。それだけでもカチンときていた所に、最後になって「関西弁では同じは使いません。一緒の一語で十分用は足ります」と宣言したのである。関西弁の中心には京都弁があり、少し前までは上方と呼ばれていた地域の言葉である。以前『全国アホ・バカ分布考』を読んでいて、その中にある京都中心史観にいやな思いをしたのだが、こういう短い番組によって私たちのサブリミナル・深層意識への上方史観の注入に、とても不快になった。それは論理の展開ではないから、普通は反論されない。だが、短いがゆえにいっそう我々の無意識に作用する。公共放送は使ってはならない。もちろん民間放送であってもである。だが、こういうメディア手法が蔓延していることも事実である。だからこそNHKは自ら厳しく禁じ手にしていくことが求められる。
    さらに、言葉の薀蓄に続いて、なにやらアナウンサーのお国弁が登場した。これでさらに不愉快に。なぜならば登場したアナウンサーがニュース番組と同じ正面顔だったからである。言葉は身体と結びついている。私は方言を大事にしなければいけないと思っている人間である。だが大学を卒業して総合職で働いている人間が本社の会議室で社長を前にお国言葉丸出しをするのが、正しい日本語のあり方だとは考えない。方言は人々の暮らしの中で暮らしとともにあるべきであろう。ニュースを読むような姿勢から出てくる方言は美しいとは言えない。
     さて本題に戻って言葉の薀蓄の内容の何にカチンと来たのか考えてみよう。

NHKが音韻〈いっしょ〉を二字漢字語〈一緒〉に還元していた。

     辞書をひくまでもなく関東武者にとって〈いっしょ〉とはまずもって〈一所〉であり、その規範のメタファである〈一所懸命〉と分かちがたく結びついている。それが近年〈一生懸命〉という誤記が増えて、最近ではこれを公認した辞書もあるやに聞く。京都のお公家は草葉の陰でさぞ、ほくそ笑んでいることであろう。なぜならば、人間は、一生を通して、命がけで戦うことなどできないからである。関東武者の教養のなさをあざ笑うのに格好の言葉の薀蓄遊びとなるであろう。
      これは〈一所〉が存在語で〈懸命〉が現象語だから組み合わせることが合理的なのである。一方、〈一生〉は現象と存在の両義であるが〈懸命〉と組み合わせたときにも両義性が保持されるので、お公家の揶揄の対象になりうる。
     さらに言えば、私もここまでの文中に「同じ」という語を使っているが、厳密には〈似ている〉を使うべきである。だが、大量生産されたモノやモノの写しである写真や絵画については〈同じ〉を日常は使っている。だが以下の文例では〈同じ〉〈似ている〉を峻別する。さらに文例を展開してみると、〈一緒に〉〈一所で〉も、〈初めて〉〈始めに〉のような使い分けがあったのかもしれないと考えられるようになった。それが〈同一〉〈同じ〉の普及で二語の対語感覚がくずれてしまったと考えるのが合理的のようである。
   ・昨日と同じジャケットででかけた。
   ・彼のジャケットは昨日のと同じに見えた。


   ・私のカバンとあなたのカバンは同一ね。(直示文)
   ・私のカバンとあなたのカバンは同じね。(直示文)
   ・私のカバンとあなたのカバンは一緒ね。(直示文)
   ・私のカバンとA先生のカバンは同じです。(聞き手;カタチが同一なの、それとも大きさかしら。似ているというべきよ。)


   ・私と先生とは、別の経路で同一の所に行く。
   ・私と先生とは、一緒に同じ所に行く。
   ・私と先生とは、一所でおち会う。
   ・私と先生とは、一所で、一緒に食事をする。
   ・私と先生とは、同じくBさんと会う。
   ・私と先生は、一緒にBさんと会う。


   ・私と彼は、お気に入りのレストランが一緒なの。
   ・私と彼は、同一の所がお気に入りなの。
   ・私と彼は、いつも同一の所にいて、気持ちも一緒なの。


   ・大庭と大江は、それぞれの地所で戦いぬいた。
   ・大庭と大江とは、一緒に門をくぐった。
    cf 大庭ハ、大江と一緒に門をくぐった。
■念のため付け加えると、私はこの文を怒りにかられて書いているが、怒りにまかせて書いているわけではない。そして原理主義に立つならば、およそ驚きと喜怒哀楽によって担保されていない言述はすべて、呪いでないとすれば、それはちり芥である。このことを現実主義の立場から言い換えると、ちり芥がの量が限度を超えると心の喘息症状(狼少年)やショック死(無力感)が蔓延することを警戒する必要があるということである。


■メモ(2007/9/22)
・同量の物 vs 等数の〈物・者〉
・同型の物(存在) vs 似姿(現象)
・姿・形が似ている
・同じ 文化の様式(mode) vs 繰り返される 文化の型(patterns)
・量が同じ vs 数が等しい
・重ねてみて、比べる vs 重ねてから、重さを量る

逆語序対;同一の物(現象) vs 一同の者(存在)
■?逆語序対;・大庭と大江とは、関東の一所で同一の首を取りあった。
         ・大庭と大江とは、関東の所一を取りあった。
■?逆語序対;・大庭と大江とは、一緒に門一をくぐった。
         ・大庭と大江とは、関東の一門である。
         cf 大庭と大江とは、同門である。
         cf 一緒に門の一つをくぐった。
         cf 一緒に一つの門をくぐった。
         cf 一緒に一つめの門をくぐった。
         cf 一緒にある門をくぐった。
逆語序対;〈文例・例文〉
■擬逆語序対;〈症例・例証〉