公共放送と言葉の薀蓄

    日本語には「言わなでもがな」の重複表現が多いと言われている。例えば・・・・
     ・落ち葉が落ちている
    NHKに寄せられたいろいろな投書を元に考察した内容を単行本にした『ことばおじさんの気になることば』を見たが、個々の視聴者に対する回答としては十分としても単行本として世に問うべきであるのか、もっと言えばそれを規範として流通させるだけの価値があるのか疑問に感じた。もう少し事例を集めれば日本語の成り立ちについて深い理解が得られるのではないかと、考察したが、今回は問題提起にとどまる。つまり個別の事例の考察にとどまったということである。

(1)色が変色する

    これは少しでも家庭科を勉強していれば色の変色には退色・変色の二種類があるので、〈退色ではなく変色〉という意味の使い方であることがわかるはずだ。さらにこれの表現が重複表現として問題ありというならば、どのような自然な代替表現があるかを考えてみたい。だが、その前に、〈退色〉は〈色があせた〉と読み下しにするのに〈変色〉は〈ヘンショク〉と漢語音が流通しているのは〈変・ヘン〉という卑語が〈偽やまと言葉〉として流通してしまっていることにも留意しておきたい。とすれば重複表現を問題にするよりも中立的な〈変色〉と〈変色=駄目〉の誤解のない表現を構築するほうが〈清く正しく美しい日本語〉の課題だと考える。
      重複表現の問題にもどって、重複表現なしの場合の「布が変色しました」では目で字面をみれば意味はわかるが、耳から聞いたときには肝心の「イロ」という音韻が欠落しているから意味が取りにくいのである。とすれば「布の色が変わりました」と完全な読み下し文にするしかないわけで、とすれば結論は二字漢字語「変色」を乱用しないようにすべきだとなるはずだ。
     もちろん、この文章を書いた人が新聞社の人であれば、そこまで言う必要はないかもしれないが書いている人はNHKの人なのだ。だとすれば重複表現の問題はなによりも「二字漢字語」から派生していることを明確にしてほしかった。
    こういうのが「デラシネ問題」なのである。
     何か、世の中には一般的な言説が高級で高度だという間違った思い込みがないだろうか。むしろ言述というのは自分の立場を明確にして、視点を絞り込んだアトにしか普遍的な価値は出てこないのである。
     つまり私の言いたいことは、日本放送協会の使命達成には〈公正・真実・正義〉という普遍的な価値の追求はもちろん、文字メディアへの対抗という現実的な覚悟がなければ不可能なだということである。NHK出版もNHKの名前を冠する以上、本体のNHK以上にこの立場に立つことを求められる。つまり敵陣中の出城であることの緊張感がなにより求められるのである。
     あるいは、http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/daijirin2.pdf  で考察したが、専門家が専門家同士では厳密な専門用語を省略したり、一般世界の用語を借用していることが多いのだが、それを〈仲間内での一般語=慣用語、くずれ語〉と名指す場合が多い。そのこと自体は問題はないが、専門家が一般世界の人々に読んでもらうことを想定した書類で〈仲間内での〉を省いて、〈一般には〉と前置きして、くずれた専門用語を使用した場合は誤解が生じる。そのような誤解が生じてしまった責任はあくまで専門家の側にある、というのが私の立場である。もっと厳しい言い方をすればそれは専門家の驕りと堕落の最初の一歩だと考える。
     NHKのアナウンサーがアナウンサー室の肩書きを背負ってNHK出版から上梓する文字メディアなのだから、そんなことは読者が忖度すべきだというのは驕りでないとすれば甘えであろう。

(2)歌をうたう

     これが重複表現に分類されているのにはびっくりした。代替表現を考えるなら「歌をする」ならばよいのだろうか。それでは柳父章氏の「カセット効果」なる概念を氏の意図とは反対に、なんでもかんでも「〜(を)する」というパターンの語に統一することが日本語を豊かにすることなのだという主張になってしまう。
     この例は重畳〈superposition〉語としてとらえるべきであろう。つまり「ウタをウタう」を、「勉強をする」などと同じ語の最小単位としてとらえるべきだ。そして音韻の繰り返しによる造語という語法こそは日本語の語形成の大きな動力であって、これを失っては日本語は萎えてしまうことをNHKは国民に知らせていくべきだ。語として定着してしまったものは漢字が当てはめられているのでなかなか意識に上らないが、いくらでも例を挙げることができる。以下。
 ・踊りをおどる
 ・掛け声をかける
 ・桜が咲く
 ・網を編む
 ・縄をなう
 ・坂をさがる
 ・カミナリがなる

(3)重畳〈superposition〉語と onomatopoeia と

     重畳語の問題として捉えれば、すぐ隣には onomatopoeia の問題が思い浮かぶ。これは私がここ数年考えてきてて、何故なのかはわからないが、日本語の場合は、onomatopoeia は通常、重畳音韻からなるのだが、重畳音韻は意味不明であってもとりあえず単語として認識するように我々の脳は形成されている。以下の例をでいうと、二拍の意味不明音については積極的傾聴態勢にはいれないのだが、重畳からなる4拍音の場合はとりあえずイメージが取れるように感じて、積極的傾聴に入って前後の文脈とのすりあわせを始めてしまう。少なくとも私個人の脳はそのような習慣を形成している。。
 ・カタがカタする
 ・カタカタがカタカタする

 ・ヒラがヒラする
 ・ヒラヒラがヒラヒラする

 ・ネチがネチする
 ・ネチネチがネチネチする

(4)水道の水が断水する

      これは確かに字面をみれば「水」の字が三回も出てくるので重複表現と言えそうである。では、代替表現がすぐにできるかというと結構難しい。原則から言えば井戸水は涸れることしかないから、断水することはない。だとすれば「断水します」だけでいいわけである。だが耳からの場合は音韻「ミズ」が必要となると、どのように書き換えられるのだろう。第一案としては「水が止まります」ということになるが、水道局という主体から言うと「水を止めます」でなければならないし、「断水」の読み下しは「水を断つ」である。とすると現実に〈断水〉が使われている文脈からは少なくとも以下の読み下し形が考えられる。これをどう一般化すればいいのだろう。
 ・断った水 ;来なくなった水
 ・断水した ;水が来なくなった
 ・断水中 ;水はきません
 ・断水中 ;水送りを中断中
 ・断水する ;水が来なくなる
 ・断水をする ;水送りを止める
    さらに逆語序対〈断水・水断〉も視野においておく必要がある。これは以下のように書き下すことになる。
 ・断水 ;水を断つ(漢字の断には意味がなく、不来とか止とか不通の漢字を水道局は使うべきなのである)
 ・水断 ;水断ち(理由があって、水飲みを一定時間中断すること; お茶断ち、色事断ち・・・・・)
    このようにして一つの語をいろいろな角度から検討すると、〈断水〉という二字漢字語が実は<中断+水道>あるいは<流水+断中>からなる四字漢字語であったのではないかと考えることができるようになる。そうであれば読み下し文は逆語序対〈中断・断中〉を用いて以下のようになるであろう。(ただし、逆語序対〈水流・流水〉については完全な考察はここでは行っていない。)
 ・<中断+水道> ;水道を中ほどで断ちます(中は時間と空間の両義)
 ・<流水+断中> ;流水が断中(状態)になります
          参考 逆語序対;〈中途・途中〉〈中止・止中〉

(5)落葉が落ちている

    これは本書にはとりあげられていないが、私は田中克彦氏の著書の中で見てから、この語をもう十年近く心の中で反芻して日本語の成り立ちを解明したいと考えてきた。これは、〈落葉らくよう〉と〈落ち葉〉がまったく異なった文脈、動詞として定着している。〈落ち葉が舞い上がる〉状況が可能である以上〈落ち葉が落ちてきたり、落ちてしまう〉状況も十分ありうる。ところが〈落葉樹〉を読み下すと〈葉を落とす樹〉であるから〈落葉する〉という動詞化は語法違反だとなる。つまり〈落葉樹〉は〈落葉させる樹〉と読み下すべきであって、読み下し〈落葉する樹〉を認めた場合、日本語の動詞形体系を崩していくことになる。これは専門用語であるから、このような混乱が定着した責任は一に国語教育を軽視し続けてきた理科教育と、二番目にはそれに対抗できなかった国語教育の専門家の責任である。
     念のため言っておくと、初級日本語教育では動詞形〈〜(を)させる〉を〈使役機能〉に還元している。だが、onomatopoeia から動詞を作るとはっきりするが〈〜している〉は自動詞で、〈〜させる〉は他動詞となる。この対構造が日本語話者の深層にあることを中級に行く前にきちんと学習者に理解させるべきである。例は以下。
  ・ヒラヒラしている vs ヒラヒラさせる
  ・スベスベしている vs スベスベさせる
  ・ガタガタしている vs ガタガタさせる
  ・グラグラしている vs グラグラさせる
    まだ完全に私の中で整理がおわっているわけではないが、onomatopoeia からみると、〈している〉と〈する〉は違う動詞にすら思える。
  ・ヒラヒラをする vs ヒラヒラをさせる
  ・スベスベをする vs スベスベをさせる
  ・ガタガタをする vs ガタガタをさせる
  ・グラグラをする vs グラグラをさせる

(6)全力でベストをつくす

    これは英語の〈best and brightest〉のような修辞法の影響を見るべきではないだろうか。〈全力〉には〈最後までがんばる〉と〈一瞬、一瞬、死力をつくす〉の両義があるのである。漢文を知らないで、庶民の日本語だけで暮らしてきた人々には〈対句〉の価値がわかりにくいとは思うが、英語でちょっとした文章を読み始めると〈対句〉が出てこない修辞法は物足らない。かつて漢文をモノにしてきた知識人も同じ感想を持つと思う。
     〈全力〉は両義であるから、〈全力〉一語で十分という視聴者がいたらNHKとしては修辞法の価値を説明してあげてほしい。この場合現実に一人ひとりの視聴者が〈全力〉にどちらの意味を汲み取っているかを特定するのは難しいかもしれないが、二語を使うことで存在論的な〈最後まで〉と現象論的な〈一瞬、一瞬〉の二つを十二分に表現できるのである。そしてキリスト教で重要視されている〈eternal〉も両義なのである。
      かつては〈末永く・いく久しく〉の対語が機能していたのだと思う。〈末〉は存在論的で、〈いく〉は〈行く〉であるから現象論に属する用語である。だがその対語の記憶を失った平成の日本人には二次漢字語対〈永遠・久遠〉は対語として機能し得ない。だがこの両語では〈一瞬、一瞬〉の語感は伝わらない。結果どちらか一つで十分となり、〈久遠〉は死語になっている。
    そして、さらに考えていくと、〈一瞬、一瞬〉のイメージにより近い漢字〈久〉を用いた、擬逆語序対〈久遠・永久〉がかつては機能していたのではないかと思えてきた。江戸期までの知識人にとっては鎌倉時代の〈永久年間〉と日蓮宗の総本山〈久遠寺〉は基礎語であったはずだからである。そうであれば〈久遠・永久〉は〈現象・存在〉だけでなく、〈聖・俗〉とも重なる対語であったはずである。

(7)いちばん最初

     これも、現象と存在を二つとも示すことで特定の時間が措定できるという書き言葉の鉄則から導かれる表現である。これは前提に単語を点ととらえるのではなく線ととらえるということがある。いいかえると、多義性を単語の本性と考えるのである。そうすると、点としての意味を実現するためには〈二直線の交点〉という数学の観念を用いることが合理的となる。とりわけ古来より〈現象・存在〉の不可分性を重視してきた人々の好んだ修辞法といえよう。以下文例をあげる。
  ・最初に診てもらった (診療だけを事としているわけではない医師の診療業務の最初に診てもらった。待されなかったことを意味しない。文脈によっては他の意味も。)
  ・一番目に診てもらった(患者の中の一番目だった。待たされなかったことを意味しない。)
  ・第一番目に診てもらった(重複表現)
  ・いちばんに診てもらった(話し言葉であるから、最初なのか一番なのかは文脈から決まる。)
  ・いちばん最初に診てもらった(医師の業務優先度と患者の順番の両方とも〈いちばん〉だった。論理的にはまだ不十分だが、待ち時間が限りなく0に近かったという含意になる。)
  ・cf ;イのいちばんに診てもらった(一番は存在語で、イは現象語であろう。ここでも逆語序対〈イ一・一イ〉がかつて機能していたのではと考えることができる。)
    さらに思い出しておきたいのは 「音韻イメージからさぐる「度量衡」概念の推移 」で考察したように、現在の国語辞典は〈はじめて・はじめに〉を対語としてとらえる感覚が皆無であることである。これは現在の日本語学であれ、少し前の国語学であれ、〈文法〉には張り切るが、〈用語法〉以外の〈語法〉には見向きもしないという悪習の蔓延から、辞書そのものが劣化しつつあることを意味している。とすればNHKは文字メディアに対抗するだけでな、言語生成の現場から隔絶してしまった〈辞書的権威〉にも対抗する覚悟が求められるのである。その覚悟が本書にはまったく欠落している。
     例文10 ; http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/doryokou.htm 
       ・初めて、あなたを診察します。(今まで診察したことはない)
       ・始めに、あなたを診察します。(第一番目にあなたを診察する)

(8)今現在

      〈今〉も〈現在〉もが共に両義であることを多くの日本人に意識してもらう方向でNHKは努力をすべきだ。すなわち〈通時的現在における一瞬=日々新た〉と〈共時的現在の中の最新時間=今日コンニチや現代〉。例文を考えると・・
     「NHKの使命は現在の日本における人々への良質な報道が第一であるが、その職責を全うするためには、日々新たに生まれてくる現代日本語の保守点検が不可欠の使命となる。」
     「NHKの使命はコンニチの日本の人々への良質な報道が第一であるが、その職責を全うするためには、今ここにある、すなわち現在の日本語の保守点検が不可欠の使命となる。」