祝言・呪咀

    http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20060601
     上記で取り上げた、言語理論の基礎法則を簡潔に示しす〈祈りと呪い〉の対語を漢字語の世界はどのように記述してきたのであろうか。とりあえず〈祈り・呪い〉はユダヤイスラムの古書記法にならって子音表記に変形すると、二通り考えられるが、いずれもやまと言葉逆語序対として処理できる。以下。

〈wnr・nrw〉〈ynr・nry〉

ところが漢字を眺めていると〈祈・呪〉はほとんど関係ない部品からなることに気がつく。それで、これも四字熟語の崩れではないかと考えて元の候補を考えてみた。〈祝言・呪咀〉がそれである。私の考えた道筋を復元してみる。以下は大辞泉と漢字源を元に他の辞書も参照して、私なりの言葉に変えた場合もあります。
(1)〈祈・呪〉→〈祈听・呪〉→〈祈听・祝呪〉
 ・祈;のぞむトコロに近づきたいと神にいのる
 ・听;歯ぐきをむきだしてあざ笑う
 ・祝;おめでたいと、ことほぐ。
 ・ほく;祝あるいは寿の字をあてて、よい結果が得られるように祝いの言葉を神に唱えるが一義めで、呪うが二義め。
 ・呪;神にのりとを告げて祈ることから転じて、相手が不吉な目にあうように祈る
(2)関連する二字漢字語など
 ・祈祷;祷は長々と神に繰り返して祈る
 ・祝詞;のりと、神前でとなえる古体の言葉
 ・祝辞;しゅくじ、祝いの言葉
 ・祝言;しゅうげん、祝いの言葉や儀式。民間音楽では番組の最初か最後に演奏されるが、能では祝言能といって、正式な番組の後に祝福能を演じる。
 ・呪言・呪文・祝文;呪術の最重要部をなす唱文(spell)
 ・祝賀;めでたいこととして喜び祝う
 ・慶祝;喜び祝う
 ・慶賀;祝賀と任官叙位に対するお礼をすることの二義
 ・呪詛;呪いの言葉をとなえて神に祈る。詛の原義は細々したことを誓うで、大きな誓いは盟をつかう。
 ・呪咀;呪いの言葉をなんども口の中で繰り返して言う。咀は何度も何度も噛むことで代表的な熟語は咀嚼。
(3)听
     この字の説明を見たときには、一瞬ひるんだ。住んでいたのは東京の下町だったけど、サラリーマン家庭だったから、「歯ぐきをむきだしてあざ笑う」などという場面に出くわした記憶はない。歯だけでなくハグキ!自分でやろうとしてもちょっと考えつかない姿勢だ。なんとか思い出せたのは小説「ワイルド・スワン」を読んでいて妻妾同居の中で井戸に緩行性毒物が投げ込まれた事件の話を読んだときの事だ。想像するのもおぞましいだけでなく、想像できないという感じだった記憶が残っている。でも、さらに努力して、記憶をたどっていくと、もしかしてプロレスの試合を見に行けば見れるのかもという気がしてきた。いずれにしても日本では放送禁止用語に限りなく近い卑語であろう。それがカタチでは〈祈・听〉と、すぐ近くにあったのである。
    と、ここまで考えていって、気になったので『漢語林』の方を見てみると、やはり・・・・。
      「笑うさま、口が大きい」としか出ていない。つまり存在語の説明しか出ていなかった。
      これなら放送禁止用語にはならない。さらに『漢語林』の方はその様子については詳しく、呼吸を小刻みにして笑う、とある。イヤ・ハヤ!実際の様子は機会があったらプロレスのビデオでもみて、ゆっくり考えるとして、語のイメージはつかめたと考えて先にすすむ。
(4)〈祈听・听祈〉〈呪祝・祝呪〉
     とりあえず、二つの逆語序対を作ってしばし眺めてみる。どうやら〈祈〉も〈呪〉も、もともと自分にとって良いことと他者にとて悪いことの両方を念じていたと考えることができそうだ。そういえば折口信夫の著書では〈咒〉が使われていた。それが正反対の意味を現在はになっているのだから〈貴卑同源〉。両語を分けたのは偏によっているのであろう。〈示す偏〉は神官がかかわり、〈口偏〉は正式でない神官に結び付けられたのであろう。そう考えると〈听・祝〉は共に良かった結果にかかわり、听は敗者に向けられ、祝は仲間内、あるいは共同体内で交わされる言葉と考えることができる。

(5)〈祈り・呪い〉←〈祝言・呪咀〉

    (a) I am lonely but free.
    (b) I am free but lonely.
     先の記事で取り上げた例文は水村美苗の小説からの引用で上記の(a)(b)の二つで、公衆の面前での発語ではなく、どちらかといえば愚痴で、それを身近な人々が繰り返し聞いた場合の効果をさしていた。そうすると(a)の方は結果「自由になった」のだから、「祝言」として発語されたと考えて問題なしである。だが、(b)の方は「咀」を持ってこないとイメージがあわない。これなら、「今は自由」という部分が意識下に追いやられて実際の発語は「さびしいなー。誰か、いい人しないかしら」となり、〈呪祈〉の形式は「誰かいい人を見つけられますように」となる。しかし現在日本で流通している「呪詛」の「詛」にはこの意味はないから、口の中で自分ひとりでぶつぶつつぶやくのは「咀」でなければならない。
      「呪詛」が広まった理由は二つ考えられる。神官が依頼人に成り代わって「のりと」をあげる場合は依頼人に効果を約束する、保障する意味を演出するには「詛」の字の方がふさわしい。もう一つは偏自体「口・言」では後者の方が高級な感じがするからであろう。辞典では両者とも正字として載っている。
     だが、現在の民衆も、そして神官権力のなかった時代の人々も上記の(a)(b)を口の中で唱えながら、よりよき明日を求めていたのであろう。例えて言えば、スカーレット・オハラが一人になって地面をたたいて、のろって疲れはてた後に「タラへ帰ろう」つぶやいたのは<祝言〉で、「タラしか行くところがない」となれば、それは〈呪咀〉であって、〈呪詛〉ではありえない。というのが私の心の中の映画のシーンだったのだけど、〈タラ〉の綴りを知りたくて調べていったら、アメリカ人にとっての映画の心象は以下のlineであることがわかった。ホント、私もすっかり風土の呪縛に絡め取られているんですね。私の脳のOSの第一言語は、空間記述用語であることを確認してしまった。
    (祝言) "After all, tomorrow is another day!"
    (呪咀) "Frankly, my dear, I don't give a damn."