『我輩は猫である』 ;漱石の型

明治38年にこれを発表して、39年に『坊っちゃん』『草枕』を上梓して、不惑の歳にあたる明治40年には一切の教職を辞しているから、この3点は一所に置いて、一緒に考えていくという読み方もあると思う。文庫本の解説は、漱石の時代の〈地〉として、西洋と日本、文壇と余裕派の比較対照を行っている。制度科学に忠実な漱石の読み方である。ここでは、通時対比による、〈内観・観照〉を行ってみたい。
     日本の散文通史を書くとすれば古事記からはじまり、古今集(辞と詞)、枕草子源氏物語方丈記平家物語花伝書奥の細道と並ぶであろう。では漱石は自身をどこに位置づけようとしていたのであろう。まずは冒頭の三句を見て、次にそれぞれの句から連想される古典を関連付けてみる。まず冒頭の構造を以下にまとめた。

[漱石] [発句] [猫] [我輩は猫である。名前はまだ無い。]
    [坊] [親譲りの無鉄砲で子共の時から損ばかりしている。]
    [草] [山路を登りながら、こう考えた。]
  [次句] [猫] [どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。]
    [坊] 小学校に居る時分、・・・・一週間ほど腰を抜かしたことがある。]
    [草] [智情意は役立たず。とかくこの世は住みにくい。]
  [出だし] [猫] [我輩の主人は我輩と滅多に顔を合わせることが無い。職業は教師だそうだ。]
    [坊] [おやじは些っとも、おれを可愛がってくれなかった。]
    [草] [どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画(え)が出来る。]

素直に、上の発句を反芻すればたちあがるのは、まずは以下のとうりだろうと思う。

[猫] [我輩は猫。→春はあけぼの。]
[坊] [無鉄砲で損ばかりしている。→ヤマトタケル]
[草] [山路を登りながら、→道中記]

  そしていよいよ次句で中世が登場する。

[猫] [下克上;氏素性はお構いなし]
[坊] [意地っ張り]
[草] [世にしたがえば、身くるし。]

    最後に近世日本が登場する。これが漱石の土台なのだ。

[猫] [離見の見]
[坊] [paternalism]
[草] [独り調べ、独り詠じて、→自分ひとりのための芸術]

    文庫本に載っている解説を読んでいくと、いろいろ興味深い。わざわざ、『坊っちゃん』にはストーリーがあるけど、他の二つにはストーリーが無く、これを小説と呼んでいいのか迷うという意味の文があった。これは「漱石は小説家だ。小説家の書くものは小説だ」「小説は小さい物語だ」という論理にはまり込んでいるのである。市井では、ストーリーが無ければそれを物語とは呼ばない。ただ、漢字〈説〉からはむしろ説教が連想される。説教であればそれはイソップ物語から今昔物語まで、いろいろあってよろしい。〈説く〉ための手段に物語を用いなくてはいけないという法律も辞書もないはずだ。だが、確かに物語が民衆教化に有効であることは事実だ。だから口承正史としての物語の誕生は民衆教化の方便から出ていると考えるのが合理的だ。もちろん『古事記』も、歴史書であるよりは民衆教化の便法であることが第一であったはずだ。一方、明治時代には〈説〉から作られた二字漢字語〈説明〉も使われていたのだから、日記や随筆も短ければ〈小説〉になる。それは『古事記』に遅れて登場した。
     結局ストーリーの原点は『古事記』に、随筆の原点は『枕草子』に求めるのが日本文化の様式としては穏当なところである。漱石もそう考えたはずと、何故考えないのだろう。さらに漱石はサムライの子なのだから近世の原点も一つ加えなくてはならない。と考えれば方丈記花伝書が思い浮かぶはずだ。すでに、ある解説者が言っているように漱石は英国に留学して日本人と日本文化が劣っているとは考えなかったようだから、そうであれば自分を形成している元のところについて、真剣に考えたはずだ。そう考えれば漱石の作品の中に、まずは日本の古典の影響をきちんと探して、その上に漱石が付け加えたものを認知していくという方法を取らざるを得ない。その作業の結果が上記図式。。
     もちろん、これは私の乏しい古典の教養から出てきたものだから、他にもいろいろの考えがあってもいい。だが『雪国』の冒頭を検討すれば、かのノーベル賞作家も『枕草子』を意識していたことははっきりする。以下。

[通時対比] [清少納言] [春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。 ]
  [夏目漱石] [我輩は猫である。名前はまだ無い。]
  [川端康成] [国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。]

       これだけでは、わかりにくいとすれば、これを日本語の典型的な文型である三詞(/辞)文に変形してみよう。以下。

[三詞文] [おしゃべり] [春は、あけぼのがいい。 ]
  [未然] [まだ、名前は無い。]
  [既然] [もう、そこは雪国だった(ママ)。]

     既に書いたように『枕草子』冒頭の句は現代日本語における共時態言語の基本中の基本の重要な文型である。ちょっと復習してみよう。
   ・二日酔いにはは、コーヒーがいい。
   ・オレは、うなぎがいい。
   ・今は、フロがいい。今は、メシがいい。今は、ネルnがいい。
   cf 電話の声;コレは、息子のオレだ。 (電話を聞く母; コレは、オレの息子だ。)
     ここに出てくるのは共時態も共時態の固定的な人間関係における発語である。だから、極端になれば「発声」は一語で十分である。だが声になったのが一語であるから日本語の意味の最小単位は一語であると決め付けて、それを「一語文」と名づけて、それを基盤に日本語文法の全体像を構築できると考える文法家が、少数ならいざしらず大勢というより、それが趨勢であるという日本は不可解な不思議の国だ。一語の発声を支えている意味の単位は三詞文である。
      だからこそ俳句は三句からなるのである。歴史的には、そのことを教化する運動だったと見るべきである。それは民衆語というのは、土台には、〈独り言・つぶやき・ぶつぶつ語・齟齬・咀嚼語〉が強固にあるので、単語の並び方の順番を〈構文〉と思い込みやすいからだ。そのままで、発声行為が普及していくと、呪咀が声となって社会に満ち満ちてしまうからだ。発声が許されるのは三詞文の形式であることを民衆に教育していく必要があると考えたのが、江戸時代までの識者だった。こういう見方は歴史上民衆の発声が公の場では禁忌であったことを知らないとわからないが、ちょっと日本史を紐どけばわかることだ。そして橋本進吉を英文法妄信の輩のように誹謗する。だが博士が着目したのは公式場面では、日欧の基本文の〈型〉が〈三詞〉であることだったのだ。以下例文。
   ・My name is John.
   ・わが名は ススム。
     そして、その俳句の伝統を学んだ漱石は気づいたのである。話すように論理文を書くことができにないと。情感だけを語るのではない日本語がほしいと。「である」調の登場である。だが、このことをまともに取り上げている解説はなかった。むしろ漱石の『文学論』は失敗だったけど大衆作家としては成功したと。そして学校では「である」撲滅運動が行われ、「です・ます」調が繁茂している。だが、以下の文例対を比較対照すれば〈である・です〉〈である・だ〉は違うことがわかるはずだ。
直示文型
  ・これは、象である。(主体による一回限りの行動としての判断)
  ・これは、象です。 (説明 ;人から習った、本に書いてあった、皆が言っている)
  ・ここは、雪国である。(そうでない可能性もあるけど、・・・・)
  ・ここは、雪国だ。 (衆知のように・・・・)
記述文型
  ・もう、そこは雪国であった。(文語調)
  ・もう、そこは雪国だった。(現代文)
  ・もう、雪国であった。(場所についての判断)
  ・もう、雪国だった。(到着した)
ここで明治という時代をもう一度よく考えてみよう。四民平等の建前にはなっても、その少し前までは百姓は大名行列のときは土下座していたのだ。そして歌舞伎を見れば御殿女中は主上の御膳に不浄の息がかかってはならぬと懐紙を口に挟んで吐息を殺して御膳を運んでいたのだ。さらに風土記を読めば、そこには青人草がざわざわとざわつくこと自体が不穏の動きとして記載されていた。つまり、公の場で身分の低いものが口をきくこと、ましてや自らの判断で何かを宣言するなど考えられなかった。という時代背景を抜きに「我輩は猫である。」という文から始まる小説を理解することは出来ない。ここで漱石は、たとえ猫の分際でも自分の意見を述べることの出来る日本語と日本社会にならなければ駄目だ、と言っているのである。
     結局は、誰も漱石を理解できなかった。そのことを漱石は知っていたから、明治44年、作家として成功した漱石に学位授与の話があったのを一蹴しているらしい。彼は、「まだ名はない」から「もう、名はいらない」に成長したんだと思う。名辞と名は違うということである。学士などの肩書き名辞を必要としない人間に成長することこそが自立した者の生の終点でなければならないということであろう。そのために、漱石が成し遂げたのは以下。

情感だけの日本語に論理の文型を導入した。伝統に対抗した。

    もちろん、ノーベル賞作家も。この新しい日本語の型を踏襲した。
    だが、名辞を必要とした人間がやったことは清少納言をなぞって漱石も取り入れただけのこと。けっして伝統に対抗しようとはしなかった。そういう芸術を西洋人がありがたがるのにはいくつかの理由が考えられる。
(1)西洋の主流に息苦しさを感じる西洋の傍流人間の癒しにうってつけ。
(2)日本人と仲良くなるには日本人の心性を誉めそやすことが近道だ。世辞を好むのは万国共通。
(3)日本人が宮廷文学に閉じこもれば、西洋の事実上の植民地として支配しやすい。
     三番目の怖さに気づいている人が少ないのは怖いほどだ。ノーベル賞も国連も結構ではあるが、所詮は紅毛長身の輩の支配の便法に過ぎない。学位授与が官僚の支配の道具であるようにだ。日本人として、一民衆として生きる覚悟の妨げになるデラシネ頭にだけはならないようにご用心。
     最後にもう一度、冒頭の句を見てみよう。大事なことを見落としていた。
     漱石は山ミチを登っていたのだった。まだ名はない山ミチを。
     ヤマトタケルの遠征記から、西行芭蕉、ヤジさん・キタさん まですべて大和朝廷の支配地域をなぞっただけである。そこは、どこに行っても神の湯や熊野社、大山のある入れ子構造の地だ。それは、その後、相生町から駅前通り、銀座通り、そして今、世界遺産入れ子の国となっている場所である。

だが漱石は山ミチを行ったのである。
山ミチを行くということは重力に対抗して行動するということである。

     もちろん私たちは「海彦・山彦」のお話を習った。だが戦後の歴史教育の大好きだった〈農耕民族・狩猟民族〉の物語によってその意味は見失われてしまった。それは柳田と折口信夫の伝説「海上の道」によって、さらに重ねて隠蔽された。だから私たちは〈みち道どう〉という一字漢字語から〈山ミチ〉を導くのが大変難しくなっている。だが船に乗って潮のミチを行く場合、まさに集団に命をあずけるわけで、一人一人にとって平等にかかってくる重力は現実の意味をもたない。だが、山ミチを行軍している兵士にとってはいつでも脱走の機会はあるわけだし、行軍とはすなわち重力に対抗することなのだ。
     ようやく最後になって、漱石の好んだ〈非人情〉の意味もはっきりとしてきた。軍団、旅団,師団,何であれ、団体行動をしている限りそこには苦しみがあり、息苦しさがあるが、そこには助け合いもあるのである。だが文壇やひな壇には何もない。動かないのであるから、〈行く人〉がいないのだから。〈しお潮・筋すじ〉は非重力の世界であるが、無重力の世界ではない。これになぞらえて言えば、〈道理・理くつ〉の世界も非人情ではあるが、無人情ではないのである。
      繰りかえす。〈しお潮・筋すじ〉は非重力の世界であるが、〈道理・理くつ〉は重力世界である。一方、水軍とは一連托生の世界である。そこで機能するのは第一に人情だ。一方行軍で機能するのは情報力だ。人情など二の次でも生きながらえることの出来る世界だ。だからこそ近世の日本思想史は〈みち筋・すじ道〉によって象徴されてきた。それは〈非重力・人情場〉と〈重力場・非人情〉の対構造、あるいは〈すじ・みち〉の〈入れ子〉に支えられて機能するメタファであったのだ。それが曖昧になってしまっては、文明開化を成し遂げることは出来ないのである。だが、それは宮廷歌人や大学にこもる学者にはイメージするのが難しい世界だ。
     でも武士は農民じゃない。農耕世界の村の論理などが、公ごとの第一規範になるはずがないではないか。それでは体制を維持する事などできやしない。文明とはまず以って余剰生産物の収奪から始まって、戦争によりそって発展して来たものだ。ここ60年を見たって、ほとんどの技術革新は軍事技術によって担保されてきたのだ。日本がここまでなんとか見かけをつくろってこれたのもアメリカの軍事技術の重要な支え手になりおおせたからなのだ。
     歴史を継承するとは近世思想の中核にある音韻〈みちすじ・すじみち〉を〈山彦・海彦〉の神話に関連付けることができるということではないだろうか。それが点と点を結んで線分を形成するということだ。どこかに線分が転がっているのではない。線分は自分の頭で自分の目の前に描いていくものだ。それが〈型〉なのだ。

〈型〉は〈様式〉でも〈類型〉でもない。

      目に見えるものではないからだ。押したり、引いたりして図っていくものだ。それが〈絵ではない図〉というものだ。夜空を見上げても星座などありはしない。瞬く星と星とがあるだけだ。星と星とを結んで図を描くのは人間だ。人間が居なくなれば星座も消える。そして人類の物語も。
      こう書くと、それではその線分は一人一人のものであって、人類の共有にはならないという反論がでるはずだ。もっともである。その線分が一回限りの経験や、思いつきで描かれたものであれば、それは人類の共有財産にはなりえない。だが一人一人の繰り返された身体経験から描かれた線分は人類の貴重な共有財産となりえる。例を挙げれば「太陽は東の空からのぼる」という事だって、繰り返し大勢の人が経験したことをまとめた一つの型なのである。だから・・・。

〈型〉が一人一人の繰り返された身体経験の総和である時、それは人類にとって意味をもつものとなる。

     最後っぺで、恒例どおりonomatopoeiaの世界に戻ろう。、現在の私たちは〈海軍・陸軍〉という存在語の対句によってマインド・コントロールされているが、古代に、〈水軍・行軍〉という対句が生きていたとすれば、そこから立ち上る音韻イメージ〈スイスイ行く・ヤッコラ、ヤッコラ行く〉が共有されていたということである。ヤマトタケルとは、そのようなモノノフであり、最後は、一人、伊吹の山の神と戦って、力尽きるのである。と、ここまで書けば〈船団・軍団〉の対句が機能していた文明もが私たちの視野に入ってくる。〈ナイル川を行く船団〉と〈砂漠を行く戦車軍団〉である。BC30世紀には、すでにユーラシア大陸の西方はそういうものがうじゃうじゃしていたのである。だとすれば、間違いなく、光は西方から来たのである。闇と共に。最初はインド洋をとおって、海から。そして揚子江を経て九州から、最後に朝鮮半島から漢字の洪水が押し寄せたのである。そして今はユーラシア大陸の西のかなたの国の事実上の属国になっている。
    だが、家康も天海も、行軍こそが公の基礎であることを熟知していたのである。だから朝鮮人から〈ひづめ足〉と下げずまれることを承知で草履を正装にした。それはハンニバルモーセがはいていた履物だ。そんなものを近世に入って、正装にしたのはタヌキおやじぐらいな者だろう。近世日本のユニークさといえば茶の湯だの歌舞伎だの能だのとすぐ言い出すが、正装としての草履ほどユニークなものはないと私などは考える。その結果、皆で世界を向こうに回して〈ひづめ足の倭人〉を未だに演じているのだ。しかしそれがどのような対抗心から出てきたかを理解している役者が何人居るだろう。一方で、葵のご門の連中は、民には駕籠は認めても、牛馬に乗ることを認めなかった。ウシ〈牛〉に乗るのはお公家、ウマ〈午〉に乗るのは戦人と差別したのである。
     自分の足で歩け。その近世日本の掟の象徴が「草履」。
     では、歩いていった先に何があるのか。何を求めるのか。あるいはエリートと何か。漱石は『草枕』の五段目の最後で、はっきりと宣言している。坊主でも、武士でもなく、芸術の士となると。ここでは、はっきりと、〈士〉という言葉が選び取られている。その使命は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするものだ、と。そして一切の教職を辞した。

・意地はって 漢語英文 ものにした 三世四界の子 山ミチを行く   (2007年10月)

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■擬逆語序〈方便・便法〉〈内観・観照〉〈比較対照・対比〉〈傍観・観望〉〈道理・理くつ〉〈人情・上人〉〈解説・説明〉
■漢字パズル〈角のある牛・角なしの午〉
■メモ
直示文

 これは、もう、マンションである。   我輩は、もう猫である。
 これは、まだ、マンションではない。   我輩は、まだ名前はない。

直示文

 ここには、もう、マンションがあるんだ。   あそこには、もう蝦夷がいるぞ。
 ここには、まだ、マンションがあったんだ。   あそこには、もう蝦夷がいるはずだ。
 ここには、もう、マンションがないんだ。   あそこには、もう蝦夷はいないぞ。

図示文

 ここには、もう、マンションがある。   ここには、もう蝦夷がいる。
 ここには、まだ、マンションがあるはず。   ここには、まだ蝦夷がいるはず。
 ここには、もう、マンションがない。   ここには、もう蝦夷はいない。


07/11/12追加
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