『日本語の奇跡』

    こういう日本文化礼賛みたいな本は買わないことにしているのだが、『50音図の話』『いろはうた』『ひらがなの美学』を参照しつつ、ひさびさに8万字の論文を書いているので、衝動買いしてしまった。それで、新年のご挨拶代わりに直近書いた部分から抜粋しておこう。

9、たかが正数、されど正数

   清濁音の問題は日本語の形態素から構文までのあらゆる階層にわたって影響している。それは平安期には「50音図」が作成されると同時に、明治維新まで民衆には隠蔽されてきたからである。代わって機能していたのが「いろは47文字」。『いろはうた;小松英雄』によれば、これは「あめつちの唄48文字」の変形であると同時に辞書などでは「阿吽」を加えて49文字でも流通していた。
  筆者自身に企業の経営企画部門での10年以上にわたる職業経験がなければ、ここまで眺めて日本語世界に嫌気をさしたのであろうが、「正数」というのは文化の問題としては非常に面白い問題なのである。ある取締役には結論を5つにして上申するとすんなり通るが、別の取締役は3でないと受けつけないとか、いろいろあるのである。中身の前に、形式が大事ということである。もっとすざましい例を出せば、団塊世代の急増によってポスト不足になった日本企業は、なんと「部長付き部長」というのを乱造した。つまり箱の数は変えないけど、人数は増やすということである。
   本論で、はっきりしたのは陳述文法の世界の正数は4であることである。だから「てにをは」であり、「四段活用」なのである。これは「16弁菊花紋」の系譜に自らを位置づけたいという人々によって担われてきたことを示している。その最後の巨人が漢心嫌いの宣長である。だが、兼好にせよ宣長にせよ50音図を知らなかったはずはないし、むしろ熟知していたはずである。とすれば彼らが苦心したのは「箱数4」にいかに「5つ」を詰め込むかだった。
     なぜならば、古代においては「五三の桐」というのも天皇家の象徴であった。そして律令の正数は5である。これも「五人組制度」を維持した幕末まで変わっていない。つまりは「50音図」の系譜であり漢心の系譜である。