イジメと私刑と

3月4日のNHKの「クローズアップ現代」のテーマは「職場のいじめが広がる−退職も」。番組自体はいつもどおりよくまとまっていた。だが、それが現在のわれわれの思索を深めてくれるかというとそうはならない。残念だが・・・。
これは奇しくも読売新聞の2月29日1面トップの囲み記事の書き出しと重なっているのである。「いたずらのつもりだったインターネットへの書き込みが一人の高校生を退学に追い込んだ」。この記事を目にしたとき、私は自分の目を信じることができなかった。囲み記事の全体のトーンは悪いことをした高校生が退学になっても仕方がない。それを父親がブログ炎上の解決策として思いつき、高校へ「自主退学」を申し出た、という事実報告で囲み記事は終わっていたからである。
   あきらかに、このような事例での自主退学は量刑としては重過ぎるというのが私の感覚だった。ところが高校への迷惑と父親の困惑だけしか読売新聞は取り上げていなかった。そして実害のあった会社からの高校生への非難は報告されていない。とすれば、明らからにブログを炎上させた不特定多数の一人一人には、高校生へ実害を結果もたらした責任があるはずなのである。
   読売新聞は 民事・刑事・私刑の相違について社会的警告を発する責任から逃げているのである。民事事件では、悪いことをした高校生に倍賞を求める権利は被害を受けた当事者にのみある。余計な第三者には賠償を強要する資格はない。
記事はシリーズもので、翌日からは実際に悪意の犯罪からどのようにして子供を守るかという点に焦点が移り、高校生の受けた被害をどのように救済していくのか、それにかかわった人たちをどのように教化していくのかという視点は皆無であった。(4日現在)
  いっぽう、NHKの番組で伝えられた成功事例は二つで、企業の業績にとって深刻だと経営トップが認識した事例と公的機関が介入して被害者の保護を実施した事例である。しかし実際に職場に身を置いた経験からは、番組の中身はきれいごと過ぎる。
  人間同士のコミュニケーションが機能していない組織では必ず「いじめ」は起きるという視点がないからである。現場でいじめがあれば、参加していない人でも嫌な気分になるはずである。だから私は炎上しそうなブログには近づかない。だが、私も会社には30年未満在籍した。いじめられたこともあるし、他人から見たら容赦ない、という措置もした。
なぜならば、会社で明らかに人の仕事の足を引っ張る人がいたら、なんとかしないわけにはいかないからだ。私なんか会社では傍流を歩んできたから言えるけど、そういう人間は主流から外されて、傍流の部署に押し付けられるのである。そいうことは会社の業績が良くても悪くても起きる。厭なら自分が辞めるか、上司に文句を言って別の部署に自分が飛ばされるかなのである。それが会社なのだ。そういうところで生き延びるのが、サバイバルなんですよ。
また、他人の不幸を演出することに無上の喜びを覚えるサド人間もある割合で人間社会には存在する。そいう人間はいじめに直接手を下したりしない。小学生のいじめほど会社内のいじめは単純ではない。
あるいは、一度公的支援を受けて会社に残った変わり者は巧妙に自分の立場を守ることを覚える。そうするとそういう、人間の直接の下っ端はたまったものでない。だから辞める。何人かが辞めれば会社も動くのである。いつも貧乏くじを引くのは傍流の下っ端。そこでどうやって生き残るのか、という視点が一番大事だと思う。


  こういう番組で大事なのは「いじめ」は古くて新しい、つまり決して根絶できない、という視点なのではないかと思う。そのことは洋の東西を問わない。NHKの指摘はその通りである。だが、日本的特性についても分析がほしかった。それは私刑と裁判の区別がまだ、定着していないことだと考える。大新聞やNHKはこの点についての教育的配慮がこの国では必要だと考える。


  ついでに言っとくと大修館が仕掛けている「YK」などの略語のもてはやし。これを見ると、一頃の「くせーなー」という「いじめ」を思い出す。98年に仕事でこの問題を考えていた時に、差別語狩りが罵倒語を貧しくしていくと、次にどういうことが起きるのか、気になったのだけど、こういうことになるとは考えもしなかった。
   「貧乏」だとか「醜い」とか、「外国人だ」「仕事でヘマばかりする」だとかを言っちゃいけなくなれば、「くさい」というその場にいなかった人間にはわかりようなない理由でいじめることになるわけだが、そのなれの果てが「YK」とはね。これが12歳の味方を名乗る著名作家の私的ブログから登場したのだからホントわからないものですね。
    確かに漱石山本七平も「空気」という言葉を使っているけど、これは翻訳語なら「雰囲気」と対を作っているはずだし、和語なら「かぜ風ふう」という伝統の重みのある語彙があるのである。確かに二次漢字語至上主義の中で「雰囲気」が「空気」に置き換えられていったのは仕方ない部分もあるけど、そして「空気」は「air」の翻訳語ではあるけど、英語の「air」の原義は「息」ですから、日常語ならやはり「雰囲気」「風」「息」が妥当なとこでしょう。
  「雰囲気」や「風」をよむ能力を身につける、というのは大人になるための修行の一つであることは間違いない。いや、日本の伝統が何より大事にしてきたリーダーシップだ。だが無味無臭、そして動きもない、「空気」を弁別できるはずがないではないか。「空気がよめる」人間など実際には存在しないのである。だが、「YK」については朝日新聞も正月の特集で持ち上げていた。こういう動きは結果として雰囲気も風も読めない大人を甘やかしていくことにつながっていくのである。
  もっとも、中国人が奇異に感じる「私は犬に中国語を教える」を非文にできない教師が岩波という権威ある出版社から言語学の普及書を上梓する世の中だから、何がなんだかわからないのも無理ないですけどね。
  そして、職場の雰囲気も読めず、作戦当日の風を読むことができなくて、他人と息を合わせることもできなくても管理職になれて、ブログで面白おかしく騒いでいれば大新聞がもてはやしてくれるような国になれば、結構なことである。
  すくなくとも「YK」というのは教育図書の会社がまともに取り上げる語彙ではないはずだ。そのことの見極めができない大手出版社と、私刑を結果として是認してしまう大新聞。こんなことでいいんだろうか。