地域日本語教室

    1月から4月まで、地域日本語ボランティアのブラッシュアップ講座に参加した。こちらの予定の関係で後半は出席できないことになったのだが、いくつか気がついたことをまとめておく。
     まず6回ほど高柳和子先生の総論があった。提起された課題は3点であるように感じた。
1、生活する外国人が増加しているにもかかわらず、地域日本語教室の参加者は減少傾向にある
2、増加してきた外国人定住者の中に識字能力の欠落に伴う、重大な生活上の困難が無視できないこととして出現してきている。
3、現在の地域日本語教室にはこの課題にこたえる力量、意欲があるのだろうか。それを育てる方法を我々は持っているのだろうか。
    もちろんこの課題について先生は一貫して解決策を模索されてきたことの証としていくつかの経験をお話しくださった。まとめると5点くらいになるように感じた。
1、ボランティ同士の相互啓発の必要。
    80年代に始まった多くの地域での日本語ボランティアの実践は学習者の能力にばらつきを生じさせただけでなく、担い手の意識のばらつきを生じた。一言でいえば、外国人と接する、日本語を教えるために日本語を相対化するという作業の中で、意識が変わった人と変わらなかった人のバラつきが生じ、両者の間の価値観の対立が起きてしまった。変わった人は決して後戻りできないから先へ行くしかないが、変わらなかった人には、そのことが理解できないのだった。
     そのことを踏まえて、「日本語学習会」に代わる「外国の方々と話し合う会」を90年代後半に実践された、とのことであった。当然その場では日本語が使われるのだから、必然的に日本語学習につながるはずだということになる。
2、教科書をどう考えるか
    初期の導入教育であれば、それなりの教科書はありえるが、その後の教育となると、定型教科書の実践に占めるウエートは、下がることを覚悟しなければならない。それに教材に対する外国人からの質問や意見に対応するためには、自分たちで教材を作る中で、自分たちの生活を深いレベルでとらえなおしておかないと、立ち往生することになる。
    とくに二字漢字語が担っている抽象語、概念語の理解をどのように深めていけばいいのかについて公式は未だ存在しない。それと10年以上まじめに教室に通ってくる人たちの助詞学習の困難さについての慨嘆にどのように対応すればいいのか、課題は多い。
3、学習の目的をどう考えるか。
     2とも関連するが、正しい日本語を教えるという前提からは地域日本語学習の今後の発展はありえない。むしろ、外国人と接することで、今まで自分たちが当然だと思ってきたことが、当然ではないと気が付いていく、そういう貴重なチャンスが得られる場というふうに、とらえなおしていく必要がある。
4、外国人の日本語教室参加の目的の第一は日本人と話をしたい。
     いくつかの行政が実施したアンケートから抽出した結果だということであった。
5、新しい地域日本語教室活動の姿は?
      教室のイメージを一新するためには、講師一人と多数の外国人学習者という定型を変える必要がある。具体的には複数の日本人と複数の外国人学習者というグループを思い描いてみよう。
      そこで求められる講師陣の力量は「質問力」に集約される。外国人が答えうる質問をする力であり、つたない日本語力の外国人からの問いの真意を自分に問う力であり、答えが見つからなかったら、他の日本人講師に質問する力であろう。不要な能力は尋問能力。これは警察と学校には必要だが、友達になるのには必要ないでしょう。


    私自身が疑問に思ってきたことが、多くの人たちにも存在していることがわかり有意義だった。解決の方向であるが、日本語文法理論があまりにお粗末であることが第一だと思う。日本語教育の勉強を始めてから、助詞〈は・が〉や〈主語・主題〉論の本ばかり何冊目にしてきただろう。だが、助詞の問題はそれぞれが深層に持っているイメージを日本人自身が確認しながら理論を組み上げていかないといつまでたっても、靄がかかっていてましてや外国人には理解できないだろうと思う。
   そのためには助詞対の研究が必要であろう。例えば、〈日本語のこれだけハ〉と〈日本語のこれだけデ〉では決定的に違うわけである。前者は初期導入定型教育の課題だし、後者であれば、定住者がの負担を最小限にするための日本語教育の課題となる。フンボルト先生は日本語には対概念が希薄だとの印象を持ったようであるが、母語話者から見て対概念が希薄な言語などあり得ない。そこをきちんと見据えて日本語のことを考えていきたい。なぜならば、対概念こそはコンピュータも人間や動物のの脳をも支配するOS言語である〈二進法言語〉の表現型なのだから。


とにかく、今回直接、高柳和子先生のお姿に接することができ光栄であった。いつまでお元気で私たちの指導にあたっていただきたい。先生の教科書から日本語ボランティアの世界に入れたことを本当にラッキーだったと思うからである。先生の教科書は難しかったけど、わけのわからなさというものではなかった。考えていけば必ず理が見つかる構成になっていた。特に『すきなもの・すきなこと』は題名からして生活の日本語の初歩と目標を端的に指し示しているという点ですぐれものである。
    その理由を以下のいくつかの対文によって記念しておこう。生活の日本語と言いながら現在の大方の教科書は、プロポーズにも痴話げんかにも役立たないことが了解されると思う。

・太郎さん、私のコト、好き?
・太郎さん、私のモノ、好き? (非文)
・太郎さん、あなたというお人は、私というコトがありながら、浮気などして。 (非文)
・太郎さん、あなたというお人は、私というモノがありながら、浮気などして。
地震の時、太郎さんってば、私のコトをほっぽり出して自分だけ逃げたのよ。
地震の時、太郎さんってば、私のモノをほっぽり出して自分だけ逃げたのよ。 (非文)