「不法投棄禁止」

    地域日本語ボランティアのブラッシュアップ講座で、外国人にとっての切実な漢字はなにか、という問題をだされた。一番さきに思いおこされるのは、警告文。ということで周囲を見まわしてしてみると警告文の多いことに、あらためて気がつく。
    法律的に禁止されているものは、たとえば「駐車禁止」「左折禁止」などがある。ところが事実上の意味は「注意」であるのに「禁止」をうたっているものもある。それは二字漢字語彙「注意」には両方の意味があるからである。一方は相手の身になって「相手がこうむるであろう事故に対応する注意を喚起する」もので、他方は相手の不作法や無法に対する「処断の危険という事件に対応した事前警告をする」ことにある。実例を以下に対比しておく。

事故  [(ドアの)手はさみ注意] [すりに用心] [窓から手や顔をださないでください]
事件  [無断駐車厳禁] [禁煙] [ここにゴミを捨てないでください]

    それでは冒頭の見だし語の意図は、なんであろうか。「不法投棄」であれば「禁止」は当然であるから同義反復となる。「不法投棄は厳罰に」とあれば、それはそれで「事件に対応する注意喚起」であるから納得がいく。・・・。というようなことを数日勘考していて、やっと思いおこしたのが以下。

読みくだし文; ものの不法投棄を禁ず→ものの投棄を禁ず+ものの投棄は不法である

学校国語で「もののあわれ」という語をならってはいるが、語頭に「もの」がつく語彙を実際にはつかわなくなっているので、思いおこすのに時間がかかってしまったわけである。しかしここまでくればさらに、ここから由緒ただしい構文をみちびくことは、識字者ならば容易である。

くずれ構文;ものの不法投棄ハ禁止。

構文;ここでノ、ものの投棄ハ、不法であり禁止されています。||
あるいは、

構文;ここで、ものヲ投棄することハ、不法であり禁止されています。
構文;ここに、ものヲ投棄することハ、不法であり禁止されています。
構文;ここでハ、ものヲ投棄することガできません。
構文;ここにハ、ものヲ投棄することガできません。

さらには、

構文;ここで、ものノ投棄ヲすることハ、不法であり禁止されています。
構文;ここに、ものノ投棄ヲすることハ、不法であり禁止されています。
構文;ここでハ、ものノ投棄ヲすることガできません。
構文;ここにハ、ものノ投棄ヲすることガできません。


   と、以上のように勘考していくと、構文の正書法もまた、かな正書法同様、いまだに確定していないことが見てとれる。これでは、外国人に教える日本語から〈てにをは〉を省略してしまおう、というような べらぼうなアンニュイが広まるのも仕方がないのかもしれない。
   だが、大切なことはうえの構文は、すべて陳述構文であって、思惟構文ではないということである。思惟構文であれば、助詞のあつかいはすっきりしている。すなわち以下。

思惟構文;私ハ、こいつヲ、不法投棄物デアルト みなす。

    学校文法でも日本語教育文法でも、そうだが、たいてい日本語の文を三種類にわける。すなわち、名詞文、形容詞文、動詞文。だが、こういう「文法とはgrammer、すなわち、つぶつぶにすること、あるいはぶつぶつにぶった切ること」という予断は卒業したいものである。社会言語(ひとまえ言葉、よそ行き言葉〉のはしらは、直示構文は別格として、のこりは陳述構文と思惟構文である。そして両者は一体不可分の存在でもある。だからこそ、母語話者であれば、どちらかを聞いた時に将来、あるいは過去においてそれに対応する構文の存在を同時に想起しているのである。だが、それが対位として機能しつづけるためには、当該社会の人々が両文型を日常につかっているという社会的事実がなければ無理である。
    ところが、現在の日本語学の多数派は日本語に主語がないことをもって西欧語に対抗する独自性を主張しているので、日常、思惟構文の存在を忘れている場合が多い。そして思惟構文のくずれ形をもって由緒正しき日本語の構文としてあつかっている。だが、そうなると実は陳述構文も機能不全をおこす。

くずれ思惟構文;こいつハ、不法投棄物デアル。


   さらにここで思いだしておきたいのが、ここまでは英語の成りたちもおなじだということである。ちがうのは英語の正書法では思惟構文が、さらにpush構文とpull構文とが、たがいに対位として認識されていることである。すなわち以下。

push構文; 私ハ、こいつヲ、不法投棄物ト考える。しかるべき処置が必要である。 [volition]
pull構文; お役人様、こいつハ、不法投棄物だと思うンですが・・・・。(なんとか、してくださいまし。) [discern]

    そして、現在の日本語ではpull構文がしばしば用いられているが、〈push and pull; かけひき〉 という対位概念が存在しない、あるいは存在していても卑語化しているので日常、人の口端にのぼらない。事実、よく使われている言葉を思いおこしてみれば「押しかけ女房」「引っかけ問題」などしか浮かばないはずである。それ故に、日本語では、〈ひとまえ言葉〉の成りたちは、いまだに明らかでない。そこに神国日本の独自性をみて、独善性に埋没したがるかつての大日本帝国臣民だった老人がまだまだ多いのである。
     だが、「です・ます運動」によって無文字社会であった僻地の農漁山村から来た子どもたちにも、発語と発語文のちがい、すなわち、〈みうち言葉あるいは、うちわ言葉〉と〈ひとまえ言葉〉のちがいを、身体レベルで身につけさせようとした事は基本的にはまちがいではない。

問題は識字率90%を達成した後に来るべき新しい目標を、誰も真剣に考えてこなかったことにある。

  かわりに学者がやってきたことは日本語と西欧語は違う。日本語は特別だ。いや日本語こそが優れていて、普遍性があるべきだ、という知見探しであった。そして、人は見たいものをみるという認知科学の法則どおり、彼らはそれを見いだした。それが一語文であり、主題(topic)であり、最後に「わきまえの語用論」であった。
     それにしても、一見とか初見の違いを言い立てれば、日本語と英語は違う、という観察は妥当であるとしても、それが日本文化と西欧文化との本質的相違とまで言いきるのは問題であろう。これは明治以来の識字教育の目標と手だてが西欧近代のそれとは異なってきたということでしかない。つまり通時的対比の手つづきを踏まずに文化をカテゴリ化するのはやめるべきだということである。
    明治時代の初等教育の最初の関心が「先生や大人から名前や行動を聞かれたら、語末に〈です〉〈ます〉を付けた返答をさせる」ことにあったのは、今知ると滑稽なようにも見える。つまり田舎の子供が名前を聞かれた時に〈みうち言葉〉で、たとえば、「太郎」としか答えられないのでは列強諸国にある文概念が全く欠落しているようで恥ずかしい。かといって「太郎や」「太郎じゃ」「太郎だ」では方言(地口)まる出しでもあり、古層に「話し手の判断」の義が横たわっているので、生意気に聞こえる。ということで、「です」が標準語の語末文型として上から精力的に推進されたのであろう。それが軍隊にいって「自分は、○○上等兵でありまーす。」のような上伸陳述文型一般として標準語になっていった。
     しかし、そこから「日本語は特別だ文法理論」の最大問題「一語文」が出てきていることを知れば多少はこの100年余の言語政策を担ってきた先達への畏敬と、そして彼らの呻吟とに身がひきしまるはずだ。そうでなければ、彼らの無念をひきつぐ覚悟にはいたれまい。
     彼らがまず推進したのは〈みうち言葉〉と〈ひとまえ言葉〉の弁別を田舎の子供たちに身につけさせるということだった。それだけのことだった。そして公教育が責任を持つのは〈ひとまえ言葉〉に限定されるべきこと、は当然の前提だった。
   だが、学問一般がこの世の中のありとあらゆる言語事実を百科全書風に記述することだとすれば、日本の学者にとって日本語の〈みうち言葉〉の豊かさと多様さこそが中心的関心になっていったのも無理からぬことである。その時に西欧由来の文法教科書に、そのような項目がないことに気づくのもこれまた時間の問題であったろう。
     だが、そこから西欧にはない〈日本の独特さ〉へと飛びついたのはいかがなものであろう。西欧には日本の漢文同様、死語である古典ラテン語のくびきから、みずからの言語を解放し、いわゆる俗語で真理を求めたり、法廷での審理を実行し、それらの結果を記述するための苦闘の歴史があった。そのための文法書が〈ひとまえ言葉〉の文法であったのは、かの地の人々にとっては当然過ぎて教科書のどこにもわざわざ「みうち言葉の文法ではありません」と断る理由はなかったのである。
     そういうことを、つまり歴史的経緯を素直に見ていけば、〈ひとまえ言葉〉の定着のあとに続くべき政策は、西欧のpush文体をいかに田舎の子供たちにまで身につけさせていくのかであるべきであることはすぐにも分かることだ。つまり、国民の一人一人がvolitionを発声し、みずからの知的認識をただちに身体行為につなげていくべき新しい革袋にふさわしい新しい内実となるべき社会言語(〈ひとまえ言葉〉)と、その作用に対する反感反動という反作用に対処すべき話し手の社会的身体所作を開発し定着させることにあらゆる言語学上の資源を集中投下するべきであったのだ。
    だが、京都中心史観派がやったことは〈volition〉を国民一人一人に対して禁忌とし続けるという提案であった。それを日本古来の伝統、西欧にはない優れた伝統、あるいは西欧の超克という名のもとに運動を組織してきたのだった。その近年における代表作が『わきまえの語用論』。
ようするに京都中心史観派は、自らに幼児期に刷り込まれた「鬼畜米英」に対抗しようとする自らの無意識に支配されているのである。公文俊平氏がいみじくも言ったように20世紀末に和辻を旗印に、京都を中心にうごめいていた一群の人々は、競争性向が強すぎて未来志向が弱すぎるのである。http://homepage2.nifty.com/midoka/rika/00PRESTO.pdf
      もっとも、こういうことは、ごく当たり前のことだという認識も必要なのである。私の叔父は中学校で敗戦を迎えて、工学部をでてから、エンジニアとして定年までつとめあげたのであるが、家族から「これからは自分の好きなことをして余生を送ってください」といわれて、「やりたいことはアメリカ軍と戦うこと」と答えたという。これを聞いた家族以上にびっくりしたのは叔父本人だっと思う。だから、一つの社会とその時代の喪失感というものは簡単には処理も理解もできないこと肝に銘じておく必要がある。げにデカルトの言っているように「人というものでは、信じていることと信じていると思っていることはしばしば一致しない」。

いま大事なことは、

日本がその経済力におうじた国際貢献をするということは国際社会でリーダーシップをとれる若者の提供ということである。いいかえれば、国連などの組織で、白人にへつらってdiscernだけは発信するが、何をするべきか、何をしてはいけないか、という責任ある発言ができない若者を量産しても仕方がないということだ。あるいは大新聞のように「狼がきた」「大変だ」というような紙面と特集しか作れない、つまり行動目標への、かみくだき作業ができないおとなを作りだしてはいけないということだ。
     行動にはリスクがともなうのだから、かならず反発と老婆心という困難に直面する。とすれば、volitionを発声する訓練をするということは、それへの対処法も身につけさせるということと一体になっていなければ機能しない。最近のキケロアリストテレスにまでさかのぼる修辞法研究とその応用研究にその萌芽をみることができるが、まだ始まったばかりの日本である。
    もう一つ つけくわえれば、ネットで「死ね!」と書かれて、それが自分にあてた内容であることは読みとれるdiscerning しか育てきれていない公教育では駄目だということだ。識字率90%を達成した社会の公教育の目標はそういう外からの圧力をはねのけていくことのできるvolition力と、その形成力との涵養となるべきである。
    さらには国際社会で、ビル・クリントンのようにヒラリーのような優秀な女性を口説き落とせる「色ごのみ」の系譜も継承させていかなくてはならないということだ。それは push構文でくどくということなのだ。参照例は以下。

push構文; I have decided that you are beautiful. [volition]

          誰がどう言おうとも(僕だけは言う)、君は美しい。

pull構文; Oh, you are so beautiful. I mean it. [discern]

          君って、ホント、きれいだよ。マジだよ。

push体; (私は、思いきって言うけど)誰が何といおうと、アタイにはアンタしかいないのよ. [押しかけ女房]
pull体; 旦那、(旦那は)アチキとあそばない?. [爪で引っかける夜鷹]

          

     なお、ここでは詳述しないが、メッセージ文にしめる判別のウエイトの大きさから考えて、従来の文法でいう「とりたて」という概念でくくられてきたものも構文の成りたちを考えるうえで、大切となる。係助詞〈ハ〉はその矛盾も背おっていることに留意していきたい。
    例えば、以下の例文は学校文法的には非文とされないが、含意は、さらに下方の文型であると考えるべきなので、省略のゆきすぎた形式と考えて、社会のみんなで少なくとも書き言葉では、使わないように運動をはじめるべきだということになる。なお、ここでつかう、「択一」は「とりたて」の意味と勘考してもらってもかまわない。さらに詳細な意味については以下のp 4 とp35 を参照のこと。http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/seidakon.pdf

くずれpush構文; (私ハ)、こいつハ、不法投棄物とみる。
択一 push構文; (私ハ)、こいつだけハ、不法投棄物とみる。
択一 push構文; 私ハ、これヲ(バ)、不法投棄物とみる。


最後に、陳述構文の英語との対比も整理しておこう。

there構文; Once upon a time, there lived a princess so beautiful.
it構文; It is the princess there who was so beautiful.
存在構文; 昔むかし、あるところに、それはそれは美しい姫がありました。
現象構文; 今は昔。その姫さまは、それはそれは美しい方でありました。


■なお、念のため書いておきますが、『わきまえの語用論』はすぐれた著書です。理由は資料が豊富なこと。一つ一つの資料の選択にきちんとした基準があることです。だから著者が描きだした「若い女の像」を反転させて、それを「老母の図」に変形することが容易なのです。
      同じような本に『日本語の歴史;山口仲美』があります。著者は日本語史について、学会の定説どおりりに、おおざっぱに言って、〈くいたい・くわない〉から〈くいてー・くわねー〉というくずれやく訛転が生じたということを主張しています。類書は多くても、その描いている図像を反転させるだけで、反対の主張を導ける書物というのはなかなか見つかりません。これはやはり資料の選び方に過不足がなく、選定基準にしっかりしたものがあるからだと思います。だから、この書で勉強すると陰画像が容易に得られます。つまり日本語というのは〈くいてー・くわねー〉から〈くいたい・くわない〉という正唱法を導くことによって洗練させてきた言語だという主張をみちびくことができます。今年はそのことを文章にしてみたいと思っています。

■頭韻〈volition・politeness〉
逆語序対〈つぶつぶ・ぶつぶつ〉
■擬似逆語序対〈ものの不法投棄・不法投棄物〉〈みうち・うちわ〉
■ push and pull →おしあいへしあい、おして駄目なら引いてみな。