『カラマーゾフの兄弟』と『薔薇の名前』と

      『カラマーゾフの兄弟』と「曽我兄弟」とを対比したら、〈の〉から〈からの〉を導くことができた。それでは『薔薇の名前』と対比すると何がでてくるだろうか。
   これは12世紀ごろには有名になっていた暗喩だから、『徒然草』の序段どうよう、わかりにくいようになっている。そもそも異端論争で火あぶりの刑になったり、暗殺が横行していた時代だから、仕方ない面もあるのであるが・・・。これを明確にしたのが映画『市民ケーン』の暗喩。ここで用いられた 〈rose bud 〉はわかりやすい。これの訳ならば「バラという名前のつぼみ」で誰からも異論は出ない。これを逆に歴史をさかのぼって援用すると以下の組句が得られる。階層のちがうことが はっきりとわかる。
・このバラの名前( name of this rose , this rose's name)
・バラという名前 (name of the rose )
・バラという名前のつぼみ ( rose bud )
    日本語では住所など広域から書き出すが、西欧語では逆である。だが英語はラテン語と異なり語順の入れ替え、つまり逆語序を許す。そのことが時々解釈上の困難をもたらすのである。とこかく、この組句の理解はキリスト教全般の理解にとっては必須なのである。三位一体の秘義の日常的な運用は以下の定型句とその展開形にあるのだから。
・父と子と聖霊の御名において、アーメン
・父という名前、子という名前、聖霊という名前において、アーメン。
    これによって外延である「神 god」は直示できない、ということを毎度まいど確認していくのがキリスト教の絶対基本である。
     さて、それでは小説『薔薇の名前』の暗喩はどうなっているのだろう。最後の訳文とその展開文をみてみよう。
・過ギニシ 薔薇ハ タダ名前ノミ、虚シキ ソノ名ガ 今ニ 残レリ。
・バラと自分が名づけたあの女はもういない。バラという名前だけが自分の頭の中で虚しくこだましている。
   やはり、題名は「バラという名前」であって、外延であるバラモノについての名辞ではないのである。ということは接辞〈の〉もまた接辞〈は〉どうように一筋縄では取り扱えないということだ。ここまでの推移をまとめると以下になる。
・外延である直示物の接尾辞〈の〉では、所有の語義とよみとる
・外延でない名辞につく〈の〉では、〈という名前の〉と展開する
    整理すると以下で、これをつらつらみていくと、ここでは接辞〈が〉は、〈主格〉や〈所有格〉という存在概念よりも、〈支配格〉という機能概念のほうが現代語としても理解しやすいことがわかる。
・この女が名前(この女が所有する名前、現在我われが名前とよんでいるモノ)
・この女の名前(同上)


・女が名前(女が所有する名前)
・女の名前(女という名前)


    さて、これを『カラマーゾフの兄弟』と『チボー家の人々』とに応用すると以下の階層列がえられる。階層関係は並行するものの〈兄弟〉と〈人々〉との差異が微妙に接辞〈の〉の解釈に違いをもたらす。これが母語話者にとっての母語話者にしかわからない絶対差異を意味するものと取られてきたことは十分に納得のいくことである。一方で、そのことからは、〈はらから〉を死語にしてしまった現代日本語話者が西欧を、いや世界を、つまりは己れを理解する時に、ある種の困難が生じているのかもしれないと考えてみてもいい時期に現在はあることが示唆される。
カラマーゾフが兄弟(当主カラマーゾフが所有する、あるいは当主に従属するところの、そしてたいていは血脈であるところの兄弟たち)
カラマーゾフ家の兄弟(カラマーゾフという名門家族出身の兄弟たち)
カラマーゾフの兄弟カラマーゾフという名前の兄弟たち)
カラマーゾフ兄弟(カラマーゾフという符丁で呼ばれる兄弟)


・チボーが人々(当主チボーが所有する、あるいは当主に従属するところの人々)
チボー家の人々(チボーという名門家族出身の兄弟姉妹たち)
・チボーの人々(チボー出身者、あるいはチボーにすんでいる人々)
・チボー人々(非文)


■なお、接辞〈の〉については、『「の」の音幻論』で豊富に展開されている。特に吉本隆明の説として引用している下記の歌謡の中の「鳩の」の解釈や大伴家持が行った〈毛能波氏尓乎ものはてにを〉を使わずに歌をよむ試みなど興味ふかい。
・天飛ぶ  軽嬢子/いた泣かば 人知りぬべし/波佐の山の 鳩の/下泣きに泣く
     とりわけ重要なのは、吉本の説をふまえて、フランス文学を専攻し、母親が熱心なクリスチャンだった小林秀雄の「花の美しさ」を考察すると、そこには少なくとも三つ以上の語義がかくれてしまっていることがわかる。
・花が美しさ(花が所有する美しさ)
・花の美しさ(花という美しさ)
・花の美しさ(花のような美しさ)


■復習になるが、外延であることが自明である「こいつ」をつかった断定文では接辞の使いわけは以下のようになる。前回、提示した「名詞の階層」と比較しておく。
・こいつは、象だ。(カテゴリ判別文)
・こいつが、象だ。(カテゴリ例示文)


・こいつは、こやつが象だ。(所有者判別文)
・こいつは、こやつの象だ。(所有者判別文)


・こいつが、こやつの象だ。(非文)
・こいつが、こやつの象であるコト(陳述形)


・東京は下町が浅草
・東京は下町の浅草
・東京の下町の浅草