『カラマーゾフの兄弟』と『曽我物語』と

    某雑誌に『カラマーゾフの兄弟』の題名を論じたエッセーが掲載されていた。日本語の「曽我兄弟」には〈の〉が入らないのにこのロシア語の翻訳小説には入っているという対比から始まっていた。言いだせばきりがないけど、やはり翻訳小説の題名では定着したものを尊重するしかないであろうということのようでった。だが、もう少しつっこんだ議論が欲しかった。つまり類型論に終始しないでほしかった。
     この問題を解くカギを求めると、奴隷制から始まって、紆余曲折をへながらも日本もロシアも近代化へと歩んできた歴史的経緯にあることがわかる。それを日本語でまとめれば以下のようになる。以下のp37参照http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/seidakon.pdf
・東京は、下町が浅草(東京の中にある、下町氏の所有する、浅草という名前のトコロ)
・東京は、下町の浅草(東京の中にある下町、の中にある浅草という名前のモノ)
     この文型が頭に叩き込まれていれば、「カラマーゾフの兄弟ではない、とは何か」がすぐに頭の中に思い浮かぶ。だから提示された上の二例ならば、以下のように解析対比すべきだということになる。
カラマーゾフが兄弟(カラマーゾフ家の所有する、あるいは配下である兄弟)
カラマーゾフの兄弟カラマーゾフという名前の兄弟)
カラマーゾフ物語
・曾我が兄弟(曽我家の兄弟)
・曽我の兄弟(曽我という名字の兄弟、あるいは曽我という名前の場所から来た兄弟)
曽我物語
    当然、明治時代にこの小説を訳すとすれば『曽我物語』という語り物との対比で「所有」という概念が皆無であることをはっきりするためには〈の〉が必要だったし、現在でも〈の〉を入れることでその意義が損なわれることはない。つまり文法的意義は明瞭である。
      むしろ、「曽我兄弟」のように、文法的意義を見失って、「グリム兄弟」とか「ブロンテ姉妹」とかの訳が流通している方が嘆かわしい事態なのである。もちろん一度は国家総動員法をくぐってきた貧乏国日本としては一言一句はいうにおよばず、一字でも削ることで紙資源を節約することが美徳であった時代があったことも理解はできる。だが、一流国になったはずなのに紙資源は無駄使いしているのに、必要な文法標識まで削ることを奨励するのはいかがなものであろう。
    もう一点、重要なことは「吉田兄弟」「お笑い三人組」「だんご三兄弟」「グリム兄弟」などとくれば、それは実在の、つまり外延性をもった存在というよりも非外延的存在であることが強調されている。つまり、〈の〉すらもつけないということであれば、それは、それこそ単なる符丁であって、どこかの土地やどこかの主に縛りつけられてはいない代わりに氏素性も、それだけでは不明な存在だということだ。事実「吉田の兄弟」と名指せば、それは芸人を指すというよりは身近な兄弟を指す事になってしまう。全国制覇を目指す芸人の名前ならば、「の抜き」が選ばれるのも道理である。そしてもし、そのうちの一人を直示しなければならない時には最初に導入される文型では、「兄の方」とか「ラーメン屋の方」とかの「取りたての接辞」が求められるのが、由緒ただしき和語の構文法だったはずである。
       さらにいえば、「兄弟」が「息子」になったとたん、〈の〉が必須であることも〈の〉の意義を明示している。「山田んとこの息子」とか「山田の息子」とならば言っても「山田息子」とは言わないはずだ。言えるのは「馬鹿息子」とか「孝行息子」など、四字全体で用言として機能する場合である。これを外延にもどすには「この」とか「あの」とかの直示接頭辞か、「め」「さん」などの直示接尾辞が必要である。よくつかわれるのが「この馬鹿息子めが」とか「おたくの孝行息子さん」。
       あるいはつぎに、「カラマーゾフ」を「狼」にかえて、「息子」「兄弟」「男」との組みあわせを比較するとまたちがったことが見えてくる。面白いことに、というか当然、排中律およびカタゴリの階層構造がきいて「狼の男」では非文となるが、「狼男」ならば可能である。これをメタファだとかメトメニとかで説明する向きもあるようだが、要するに「狼」が外延性を失っていることを明示するのが「の抜き」なのである。ところが日本語ではこれに「さん」をつけると外延として扱うことになる。ただし、書き言葉ではいくらなんでも気味が悪いので「大上さん」などと字を変える。
        面白いことに、「兄弟」は「狼の兄弟」も「狼兄弟」も可能である。「息子」に比べれば、限りなく「男」に近い文法的扱いである。と、ここまで内観あるいは内省作業をしてくると、ようやくすでに記憶していた知識、少しまえまでは異父兄弟、異母兄弟、それに庶子とか嫡出児などの弁別が社会的に大きな意味をもっていたことがはっきりと意識にのぼってくる。兄弟でもそろって「カラマーゾフ」を名乗らない、名乗ることができない場合も多かったはずである。そういうことを実感として認識できるようになることも古典を読む効用の一つであろう。なぜならば、現在のわれわれの謳歌しているという「自由と平等」とは何か、ということを考えるときに、まず行わなければならない作業が「自由と平等でない、とは何か」を明らかにすることだからだ。
    では、以上の内省経過を対比できる形にまとめてみよう。
カラマーゾフがおやじ
カラマーゾフのおやじ
カラマーゾフおやじ(非文)


カラマーゾフが兄弟
カラマーゾフの兄弟
カラマーゾフ兄弟(非文ではない)


カラマーゾフが息子
カラマーゾフの息子
カラマーゾフ息子(非文)


カラマーゾフが娘
カラマーゾフの娘
カラマーゾフ娘(コとよむことで親称)


カラマーゾフが男
カラマーゾフの男
カラマーゾフ男(非文)


カラマーゾフが女
カラマーゾフの女
カラマーゾフ女(メとよむことで卑称)


カラマーゾフが人
カラマーゾフの人
カラマーゾフ人(ジンと音読みすることで国の名)


カラマーゾフが狼(所有物)
カラマーゾフの狼(所有物)
カラマーゾフ狼(品種名)
      暇になって、こういう表を作って眺めていると至福の時だと感じる。やはり「兄弟」という名辞には特別な感覚が入っている。どうしてだろう、と考えていくと以下の慣用句が意識にのぼってきた。

「四海同胞、われら皆はらから」

     日本語では〈はらから〉は死語同然であるが、英語では〈はらからsibling〉の方が〈brothers and sisters〉よりも、日常語として頻用されている。当然ドストエフスキーが用いた「兄弟」には「はらから」や「同胞」の含意がはっきりと意図されていたはずである。 しかし含意を表に出してはならないのも修辞の原則であろう。であれば「の抜き」という択一はありえない。
     それを支えているのが地名と家名がたぶん欧州でも、それほどかけ離れてはいないという歴史的事実ではないだろうか。特に貴族以上の場合は家名が荘園名から領土名になっていったであろうから、日本と共通する部分があるのであろう。だからこのような文脈では〈の〉の展開例として〈からの〉をすぐに思い浮かべることが少し前までの人々には容易だったのだろう。これであれば庶子でも異父兄弟や異母兄弟でも幼年時代を父方で過ごして、子どもとしての体面を与えられていれば、〈の〉によって、文法的扱いは整然とする。
    〈人間 subject〉であることがはっきりしている限り日本語では出身地名と出自名はほぼ重なるし、都のように諸国からの人々が多ければ、それ以上詮索しないことがお互いにとって都合がよい時代が長く続いたということである。一方、それが〈物 object〉であるならば贈り物や献上品という含意を当然持ったままでもある。もちろん奴婢や農奴も支配する側からは〈物 object〉以外の何物でもない。そうすると〈が〉〈の〉の意味は時代や社会階層による相対的意義をもつとなる。辞書には、とくに差別語狩りの厳しい社会では明記しにくい語義である。
      だからこそ、修辞法とはまず「A であることを理解するために、Aでないとは何か」から考えることを訓練していくのであろう。それを支えるのが歴史と歴史学の教養ということであろう。だが、団塊の世代の我々は、学校でこのような素養を体系的には学んでこなかった。くやしいと思う。
カラマーゾフがお人(出身地のイメージ)
カラマーゾフのお人(出身地のイメージ)
カラマーゾフお人(非文)
cf:・カラマーゾフからのお人


カラマーゾフが人々
カラマーゾフの人々
カラマーゾフ人々(非文)
cf:・カラマーゾフからの人々


カラマーゾフ家が人々
カラマーゾフ家の人々
カラマーゾフ家人々(非文)
cf:・カラマーゾフ家からの人々


カラマーゾフが二、三人
カラマーゾフの二、三人
カラマーゾフ二、三人(非文)
cf:・カラマーゾフからの二、三人


カラマーゾフが猟犬(所有物)
カラマーゾフの猟犬(所有物)
カラマーゾフ猟犬(非文)
cf:・カラマーゾフからの猟犬(贈り物)
     なお、最後につけくわえると、従来の国語学の見方からすれば、ここでの〈の〉は、〈からの〉の省略形、あるいは訛転という認識になる。私自身もそのように記述してきた。だが、今は少し疑問になっている。むしろ現代日本語でも頻用されている〈ん〉のバリエーションとして多くの接尾辞〈が〉〈から〉〈こと〉〈の〉〈もの〉などのパターンを日本人は長い年月をかけて確立してきた、という見方もできるのではないかということである。だからこそ〈うちわ言葉〉となるとどうしても〈阿吽のンの方〉が頻発されてしまう。すくなくとも〈阿吽〉という語彙を大事にしだした古代の人々はそう考えたし、50音図を〈あ〉から始めて〈ん〉で終えるように定めた人々もそのようにイメージしていたのだと思う。だからこそ最古層の音韻として〈ん〉を最後に置いたのだと今は考える。