連辞、はたまた繋辞

    今まで「質量/重さ」「主題/主語」についての辞書や文法家の方針に異議を唱えてきたわけである。これらを〈政治term〉と名づけている。最近、「連辞」にかえて、しばしば用いられるようになった「繋辞」も〈政治term〉であるように感じていろいろ考えてきた。そもそも〈繋〉は当用漢字ではなかったから私の学生時代には見かけなかった字である。
    さて、そもそも日本語論なのに copula という語を使って書かれた膨大な論文について、不思議であったのは、それが以下のような形式をとっていることだ。
・クジラは哺乳類である。(大辞泉
・人間は動物である。(明解)
      手元の辞書をみても、例文は上の二例でおしまい。だが、英語ならば小さい領域から書き始めて最後に国家名を記すのだから、こういう形式でいいわけだが、日本語は逆である。それなのにこういう語順を無前提に押しつけられると、不愉快になる人間の方が正常だとおもう。だが、世の中の人はこういうことに疑問を持たないようだ。
      それでも、これは以下のように読みくだすのだとすれば、それはそれで順当である。それは、小学校時代に先生から習った言葉遊びによって着想が可能になった。その言技を知らなければ以下に展開する考えを着想することはなかったかもしれないが、かろうじて私にはこの言葉が与えられていた。

スモモもモモも、モモ、モモのうち

・ここは、東京の内である。
・クジラは、哺乳類の内である。
・人間は、動物(組)の内である。
     そこから、つらつら考えていくと日常生活では、日本語でもやはり小さい領域から発語していく場合の方が多い。むしろ以下のように大きい領域から発語する場合というのは殿中での作戦会議のような場合のはずである。でもそれが私の考える発語言葉ではなく発声言葉であり、これが公式言語の基盤となっていると考えることはは十分に合理的である。その後に、さらに詳しい地図を展開してさらに領域を絞って作戦を練り上げていくのが順当なやり方であろう。
・(作戦要衝の)東京は、ここである。 (地図上の一点をさして殿上人同士で議論する場合)
       ということで、発語言葉ならば、日本語も英語同様に小さい領域から読み上げていく言葉があったのではないかと仮構していろいろ考えてみた。そうしたら以前から気になっていたカタカナ〈ハ・ソ〉の字形の鏡像対称性をきれいに説明することができた。以下。
・浅草ハ東京。 (ここ浅草は、東京の内である)
・浅草ゾ東京。 (ここ浅草こそが、東京の中心である)


非文例
・東京は浅草(東京の内の浅草)
・東京の浅草(東京の内の浅草)
・東京が浅草(東京氏の所有になる浅草)
文例
・東京には浅草。(がある/がいる)
・東京では浅草。(非文)
      ここまでの頭の整理ができて、初めて『明解』と『大辞泉』の編集方針の違いも鮮明に意識にのぼってくる。ようするに彼らは、論理学者がいうcopulaなんてどうでもいいのであって、日常語使われてきた日本語の文型の代表的なものを引っぱっぱてきて、それを〈は+である変換〉しただけのことなのである。そうしないと論理学者から怒られるからであろう。こういうのも、〈政治term〉というべきである。
    だから一般論で言うと、日本語で包摂概念についての勉強をしていっても、対偶概念の説明が弱いので、結局論理をあやつれる日本人は育ちにくいし、事実育っていない。さらに識者によっては論より情が、日本語と日本思想の優れた部分であり続けるべきだとまで言う人もいる。そういう状況の中で専門家集団は「連辞」よりも難しい漢字を使った「繋辞」の定着に血眼になっている。馬鹿ではないか。そもそも論理式で大事なのは「逆は真ならず」と対であることだ。であれば、単文の読み下し文は論理文とはいえない。そこには話し手の状況や感情が入ってしまうからである。

コピュラの文例を辞書に載せるならば「逆は真ならず」も載せるべきなのだ。

      そうすれば論理文のなんたるかが身体で分かるのである。例えば「犬はいつも動物であるが、動物はいつも犬ではない」と。それが嫌ならば、やはり「のウチである」の文型を使うべきであろう。
    ということで、

・鯨も哺乳類の仲間である。 (周辺の存在を提示して、類概念イメージの拡張を行う)
・人間こそが動物の代表である。 (動物という類の主だった例をしめすことで主語辞のイメージを強化する)

   とすれば、「浅草文型」にならって歴史的には以下のような文型として教化維持されてきたと考えることが合理的である。

・鯨モ哺乳類。
・人間ゾ動物。

    さて、カタカナ「ハ・ソ」に戻って考えていく。これにカタカナ〈ン・ノ〉を加えて眺めてみよう。そうするとカタカナ〈ソ・ン〉のなんとまぎらわしいことか。もとは同じだったのではないかと勘ぐりたくなる。とくに英語話者にカタカナやひらがなを教えているとそういう風に感じることがちょくちょくある。ひらがなの〈わ・れ・ね〉なども、「一組のものとして覚えてね。ワ行とかラ行だととナ行だとかとか、エ段とア段とかにぶった切った連中の言いなりにならないでね。もとは同祖なのよ。同じ腹からなのよ。」という幻聴が聞こえてこない人の方こそが、鈍感で、ボクネンチンで、お馬鹿なのではないかと私などはおもうのである。
    ということで、思いきって以下のような日本語の発達の道筋を仮構してみたい。その前に接辞〈ボ・モ〉の関係について整理しておこう。これは従来の国語学では訛転という概念で説明されてきた。例えば〈けむい・けぶい〉などである。だが、私はすでにハ行音、具体的にはバ行音とマ行音との対立は意識的組織的に日本の権力によって維持されてきた対立だという考えにたっている。詳しくはhttp://homepage2.nifty.com/midoka/papers/seidakon.pdf
     この事より〈ボ・モ〉を〈旧音・新音〉あるいは〈副音・正音〉に関連づけることが私の場合は可能になる。そうしておいて朝鮮半島から漢字の洪水が押しよせるよりだいぶ以前に、ほんの一握りの漢字が伝わったとしたら、どのような漢字であろうかと、頭の中をひっくり返してみる。日本語話者でかつ識字者ならば、一つあげろと言われればたいていは〈米〉をあげるであろう。『漢字源』によれば「小さいものの意」とあるが、私は「小さいモノがたくさん」とよみとく。さらに〈オ・ホ・ヲ・ノ・ン〉もまた歴史的には意味づけが紆余曲折をもち、議論が多いのであるから、もともとは同祖であった確率が高いと処理することも合理的である。
   とすれば以下のように対応させることが合理的であるとなる。
〈米〉→〈ソ・ホ(O)〉;強調・存在
      〈ソ〉→〈ノ・ン〉;接辞・雑辞
      〈ホ〉→〈ハ・モ(BO)〉;拡散イメージ・集中イメージ
〈ソ・ホ〉→〈ソ・モ〉;主だった例・周辺例
〈ソ・ホ〉→〈ソ・ハ〉;中心点・領域の内


   整理すると、以下。
・こン、象。(長から皆への発声言葉;こいつハ、象)
・こゾ、象。(長から皆への発声言葉;こいつコソが、象)
       参照;(4) http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/gengo06.htm


・鯨〈O〉得たきもの。(発語言葉)
・人間ゾ得たきもの。(発声言葉)


・鯨モ哺乳類。
・人間ゾ動物。


・浅草ハ東京。
・浅草ゾ東京。
   これを整理すると日本語の発達の道筋を以下のようにまとめることができる。

[原初] [存在・強調] [周辺の例示・主だったものの例示] [領域の内・領域の中心] [詞の非文連接]
[〈阿吽〉のン・ゾ] [〈O〉・ゾ] [モ・ゾ] [ハ・ゾ] [ ノ ]

    最後に、〈ガ〉はどこから出てきたのだろうか。これについては〈んじゃ・んが〉の対比を仮構することが合理的であろうと考えている。以下参照ください。P47 http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/seidakon.pdf


■なお、「日本語の発達」という概念は、とうとつに聞こえると思うので補足すると、以下の二書からヒントをえた造語である。さらにいうと、『薔薇の名前』の時代背景はオッカムや『俗語論』のダンテと同時代である。オッカムと同じ洗礼名のウイリアム修道僧が、主人公あるいは記述者の師として登場する。オッカムと同じフランシスコ派の、ロジャー・ベーコンの登場もほぼ同じ時期。
『英語発達小史 1904;THE MAKING OF ENGLISH』
『完全言語の探求 90年代;The Search for the Perfect Language (Making of Europe Series) 』


■08.06.21 補記;本文中だとまぎらわしいのでここに追加しますが、以下の文例も古層の名詞文として覚えておきたい。
・そこ、足利  (足利は場所・モノの両義、新奇情報)
・こぞ、足利  (足利は既出情報)
      参照 p42  http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/seidakon.pdf


逆語序対〈ここは、東京のうち・東京のうちは、ここ〉
逆語序対〈こっちは、東京が家(うち)・東京が家は、こっち〉
■逆は真ならず〈こやつは、東京氏(んじ)・逆は非文〉