ざれ歌「本郷も、かねやすまでは、江戸のうち」

これに語末形態素群をつけて文語風のものと重ねてみると・・・・
・だ/です/でした
・である/であった
・にある(なり)
・のようだ(らし)
・といわれている(と聞けり)
・というべきである(たるべし)
・というべきであった
・だったり、でなかったり
・だったり、でなかったりだ


    なぜ、こういう遊びをするかというと、今まで、こういう遊びをしたくなるような定型句にであっていなかったからだ。なぜ、このざれ歌が私の手すさびに向いているかというと、私の小学校時代から祖母の思い出までが密接にくっついているからである。後楽園球場のある春日町交差点から急坂をのぼって本郷三丁目まで行く途中を右に入ると今は死語になりつつある閑静という翻訳語がぴったりの屋敷町があって、そこには母親の知人が文字通りの屋敷を構えていて、そこに行くと必ず手作りのカスタードプリンが出てくるのだった。
      「かねやす」という店は私の好みではなかったがいかにも高級小間物屋という感じの店で江戸情緒の生きた化石と田舎の高級洋装店が同居していた。それよりも大事なのはその先にある「ふじむら」とう羊羹屋で、子どものときには羊羹なんか見向きもしなかったけど、そこの「きみしぐれ」というお菓子は明治期の小説にも登場する名品だということで、それに何より祖母の好物だということで祖母の晩年にはみやげにわざわざ買いに行ったのである。そこは我が家から都電で一本だったから、上野、白山、お茶の水、神田、駿河台までは「よそ行き圏」だった。
     とここまで書けば東京に縁のない人には自慢たらしく聞こえるだろうし、本郷という名前にはいやな感じを持っている人も多いはずだ。だから日本語の理論書にはこういう慣用句は登場しない。差別語狩の論理からは当然なのである。かわって登場するのが「犬は動物である」のような「 This is a pen.」同様に人畜無害である、というより決して発話も発語もされない、つまりメッセージ性が欠如している文型ばかりである。だが、こういう言葉を使っても、それを使うべき文脈が浮かんでこないのである。だからそこから言葉の本質を照射することは非常に困難である。
      このざれ歌をつかって、たぶんとても面白い発見ができそうな気がしている。