音幻〈上村〉

  実家の母が倒れて、50日ほどやきもきしたが、なんとか退院できた。といっても以前のような独居老人の生活は無理なので、近所の老人ホームのお世話になることにした。本人も文字通り「三食昼寝つき」の生活に安堵している。
   それにしても当所に越してきて40年以上になるというのに市のことについて何もしらない夜間市民であったことに今さらながら驚いた。母の入院した病院は市の南部にある我が家からはJR東海道線を越えて、さらに旧の東海道もこえていった遊行寺義経で有名な白幡神社の間にある。もちろん一度も足を踏み入れたことがないというわけではないのだけど毎日通っているときに見えてくるものは違う。
   古い町並みは見るかげなく変貌しているが、それでもやはり歴史の重みみたいなものが匂ってくる。そしてこういう場所の住人から見れば我が家のある「鵠沼」などは、明治になって急に開けた新開地に過ぎないのだということも、了解されてくる。少し前に埼玉の方で「見沼」という地名を残すべきかで住民の間に議論が沸騰しているというニュースを見たときにはさして感じることはなかったのだけど、やはり「沼は沼」に過ぎない。かつては人の住むところではなかったのだと了解される。
   そして一度そのようなニュアンスに気づいてみると、またまたいろいろ見えてくる。まず母のホームの地番が〈本町ほんちょう〉なのは良いとして、最寄り駅は〈本町ほんまち〉なのだと言われた。さらにその最寄り駅のある地番が「本藤沢」だという。これではまるで「本」だらけではないか。
    さらに驚いたのはホームに行くためには、「上村経由」というバスに乗らなければならないのであるが、これの読み方をめぐってひと悶着が起きたのである。私も「かみむら」なのか「うえむら」なのか一瞬戸惑ったのであるが、文字をたよりに探し出すのにはさして苦労しなかった。ところが電話で高齢のご婦人に伝えたところ、後日お叱りを受けた。読み方が違っていてバス停を探し当てるのに苦労したというのである。
   な、 なんと、「たむら」と読むのだそうだ。
  バス会社の人には「たむら」以外の読み方をする人がいるという前提はなったようだ。住民であれば当然知っているべき地名ということであろう。しかし、それは日本の文部省教育の意図とはことなっている。普通ならば音韻〈たむら〉から連想されるのは第一に「田村」であり、しばらくおいてようやく「多村」が思い起こされるはずである。
    郷土史をひもとけば、あるいはこの漢字の由来についての文献が記載されているかもしれないが、当面は連想を広げてみた。たしかなことはある時期の村人が〈田・多・他などと上〉の漢字を峻別していて自分たちの地名あるいは庄屋の姓には「上」の字を用いたいと思ったということであり、そのときに音韻〈たむら〉にも固執したということである。
そこには、どのような歴史的認識の経緯があったのだろうか。
   正しい答えなど見つかるはずもないが、連想を続けていってたどり着いたのは漢字〈外〉。日本語通史を紐解けばカタカナ〈タ〉のもとになった万葉仮名は〈多〉と出てくるのだが、これでは〈タ行〉の一貫性を説明できない。だが〈タ・ト〉と読み解くならば〈タ:高いところ〉〈ト:低い床〉となってきれいに説明可能になる。
    そうであれば、朝鮮半島から漢字の洪水が押し寄せる以前から〈タムラ・トムラ〉という対概念で地域が構成されていたとすれば、新しい漢字として〈上〉が選び取られたのは合理的である。
   さらにもう一度万葉仮名に戻ってみると、〈タ・多〉〈ト・止〉とある。不思議なことに両方とも二重同型なのである。〈多〉の方は誰でも容易に気がつくが、〈止〉の方は転回同型であるから、上のようなとりとめのない連想を経ないと気がつかない。でも気がついてみれば以下の式が得られる。

●〈多〉+〈止〉=2*〈外〉

    そんなことを考えながらバスに乗るたび、車内アナンスに注意してみるとテープから流れてくる正式名は間違いなく〈タムラ〉なのだが、運転手の口から出てくる音は〈カムラ〉に聞こえることが多い。それは決して〈タカムラ〉や〈カミムラ〉のつまった音ではなく、必ず三拍である。不思議なことだ。
   もしかしたら、私たちは清音〈カ・タ〉を耳からも峻別できると思い込んでいるだけで、かな字は間違いなく違っているが、聞こえる音の、その差異は微々たるものなのかもしれない。