助詞対〈が・を〉

母の入居したホームへ行くバスの車内広告のアナンスが少し変わった。前から気になっていた以下の文言が訂正されたので多少聞き心地がよくなった。

先生が自由に選べる○○個別指導学院

   これでは生徒に先生の選択権があるのではなく、先生に生徒の選択権があるような第一印象になってしまう。でも日本で生活していれば公共空間に属する学校やビジネスの場では上長には生徒や部下を選択する権利は建前上はないことは自明である。一方、生徒や部下の方からは、恐ろしくて上長を拒否する選択肢を取る事例はほとんどないことも自明である。したがって広告のアナウンスであれば以下の意味を伝えたいのだと一呼吸おけば、容易に了解はできる。

先生を自由に選べる○○個別指導学院

  この事例は東京近郊の大手バス会社の運行バスの中で採集したものである。解釈には、方言と標準語の対立をもちこむ必然はない。しかし、この事例に出会ったことがない若い研究者が地方に行って方言の調査をおこなって、似たような事例を見出すと、それがそのまま方言と標準語の対立の見本として採録され、岩波のような権威ある出版社から上梓される。
   『複数の日本語;p109』には以下の文例を沖縄方言独自の文例としてかかげ、私が上記文例で感じた違和感を標準語話者特有の偏狭な言語経験だと決めつけている。

おかあさんが干してある

  著者はこの文言の full sentence として以下を提示している。

おかあさんが洗濯物を干してある

      だが、日本語の基本中の基本にある敬体を踏まえれば完全な形は以下のように考えるべきである。そうすれば、 object が省略されても、「おかあさん」は subject であって object ではないことは一耳で判然するのである。事実、動詞「おる」「いる」であれば、これまた object と間違えることはおきない。両動詞とも「敬体」ももつ。標準語話者であっても高等学校の課程をきちんと済ましてあれば、「あられる」を非日本語だとは考えない。

おかあさんが洗濯物を干してあられる
おかあさんが干してあられる
おかあさんが干しておられる
おかあさんが干していられる

  日本語教育法の勉強をはじめて数年になるが、教科の体系がぐちゃぐちゃ過ぎることを痛感している。それは文法と語法の違いすら研究者間で共有されていないからである。簡単に言えば「文法」はconstruction、つまり構築であり、要するに〈subject-predicate〉の扱い方にすぎない。これは多民族、多言語社会を最小の経費労力で運用していくためのルールである。そこでは言語の多義性を排除し、言語教育を最小の時間と労力で達成していくことが主眼になる。
    当然一番主要な関心は徴税と懲罰の運用の公平円滑である。神の前、あるいは王の前では個々人は平等でなけらばならない。そこでは敬体など邪魔物でしかない。
    だが、日本語では敬体は敬体であるだけでなく、二詞文における〈subjectーobject〉の指示機能を担ってきた。だから敬体を前提とする限り二詞文でも十分に機能してきたのである。そのことがどれほど日本語の意味と文脈理解において大切かということを初級日本語は教えない。かわりに数助詞や授受動詞をやたら難しく教える。
    そのもっとも基本的な形式を日本語話者は形容詞と動詞の違いとして学び取る。すなわち以下の対文においてである。ここにおいて日本語ではもっとも基本的な指示語対〈自者-他者〉すらが隠され得ることを身体に刷り込む。

水がほしい
水をほしがる

    これを構文にする最小の対が以下である。現在の学校文法では両者の組み合わせは取替え可能であるとする、というよりそういうことに頓着しない人たちが上層部に陣取っている。「迷ったらシソーラス」というあなた任せが蔓延している。だが、直示文法では取替え不能である。このことが身体化していない幼児に識字教育をすることは危険であるというのが、少し前までの社会の暗黙の了解だったと考える。

ワシラハ「水がほしい」 トオモウ
アイツラハ「水がほしい」 トイウ

   さらにいえば、現在ではもう少し多様な表現対が普及している。これにより、「水をほしい」のような混在形もシソーラス上ではみつかるが、日本語の構造がどうでもよくなっているわけではない。
・ワシラハ「水がほしい」 ノダ
・アイツラハ「水がほしい」 ノサ


・ワシラハ「水をほしがっている」 ノダ
・アイシラハ「水をほしがっている」 ノサ


・アイツラハ「水がほしい」 ラシイ
・アイツラハ「水をほしがっている」 ラシイ
 (重複冗句であるが、シソーラス上では蔓延している)

   日本語では学校英語の好む〈I-you〉 の対は最後に登場する。つまり話し手にとって眼前の聞き手、すなわち対者は直示する必要がない存在、あるいは自者、他者同様隠され得るのが日本語のありようである。なぜならば会話体においてはこれらの三指示体の差異は自明であって、つまりは大野晋氏言うところの旧情報だからである。むしろ語末の辞によって、あえて三指示体を明示するように日本語が発達したのは伝聞や記録の「詁み手」にとってもわかりやすいようになのである。だからこその構文であり、構文文法であろう。

・オマエラハ「水がほしい」 ノカ
・オマエラハ「水がほしい」 ラシイナ

・オマエラハ「水をほしい」トイウ (主節としては無礼であり非文)
・オマエラハ「水をほしい」トオモウ (完全文としては多義であるから非文)

    なお、『複数の日本語』の端書には川端康成の『雪国』冒頭とサイデンスタッカーの有名な訳文が載っている。ここに著者らのというより、この対比をもてあそんできた多くの先学の構造音痴ぶりが如実に現れている。 そろそろこのようないい加減な対比をもてあそぶことはやめてほしい。冒頭文の主節は後半部であり、 full sentence は「そこは」を挿入して得られるのであるから、英語の「there構文」に訳するのが構造保持変換としては正しい。もちろん、文学作品である以上、意訳、抄訳、ぶっとび訳を直ちに間違いとする必要はないけど、言語科学では「まず構造ありき」が正統な方法であろう。
・国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(川端)
・The train came out of the long tunnel into the snow country.(サイデンステッカー)


・国境の長いトンネルを抜けると そこは雪国であった。(full sentence)
・As the train came out of the long tunnel there spread a snow country.(構造保持訳)

自者・他者・対者
話し手・聞き手・詁み手