助詞対〈なら・なれ〉

   先日、以下の対文について考察したら、次に助詞対〈なら・なれ〉のことが気になってしまった。
・先生ガ自由に選べる
・先生ヲ自由に選べる

・先生ナラば選べる
・先生ナレば選べる
先生を修飾しても、関係は変わらない。
・次の先生ならば、選べる (私は・生徒を)
・次の先生なれば、選べる (私は・生徒を)
ところが、句にすると〈ガ・ハ〉対を要求される。そうすると後ろの文には〈生徒は私を〉が入らなくなる。

・私ガ先生ならば、選べる (私は生徒を・生徒は私を)
・私ハ先生なれば、選べる (私は生徒を・*****)

念のために別の名詞で文を作ってみる。そうすると〈雨〉のような〈コト体言〉では動かないが、〈モノ体言〉では差が出る。
・雨ならば、できる (私は運動会を・運動会は私が)
・雨なれば、できる (私は運動会を・運動会は私が)
・飴ならば、できる
・飴なれば、できる(非文)
もっとも後半の動詞を変えると非文にならない例も出てくる。
・飴ならば、作ることができる
・飴なれば、作ることができる(非文)

・飴ならば、食べることができる (仮定)
・飴なれば、食べることができる (理由)

同じようにしてコト体言〈サッカー〉で遊んでみたら、慣用句〈ならでは〉が頭に浮かんできた。
・サッカーならば、できます (私は・私が)
・サッカーなれば、できます (私は・私が)
・サッカーナラデハノ、楽しみ
・サッカーなので、できます (私は・私が)
古典辞書を引くと「ならで;ではなくて」とある。さらに「で;打消しの接続助詞」とある。
こういう説明で本当に日本語がわかるようになるのだろうか。それでコト体言〈赤〉で作句してみた。
・赤ならば
・赤ならで
・赤なれば
・赤なので
・赤なのに
不思議なことに上の五句中〈赤い〉で置き換えられるのは三つだけである。

・赤いならば
・赤いので
・赤いのに

〈赤い〉の古形〈あかし〉と、動詞句でも似たような結果である。
・明かしならば (証し)
・明かさば
・明かさで
・明かせば
・明かしなので (証し)
・明かしなのに (証し)

・作るならば
・作らば
・作らで
・作れば
・作るので
・作るのに
これだけで断言するのは危険かもしれないが、未然形の二大用法が「打消し」「使役命令」だとすれば以下の慣用句のなまった形と考えて助詞〈で〉に打ち消しの意味ではなく〈事態の推移〉の意味に統一した方がいいように思った。
・作らんで
・作らせて
もちろん正書に登場する〈作らむ〉は文末では〈作らん〉の形をとれるが、助詞〈で・て〉には接続しない。
だが、「ん音便」動詞ではどうなるのだろう。
・飲む/飲まんで/飲ませて
・かがむ/かがまんで/かがませて
では、以下ではどうであろう。「と云う」だけが両義のような気がするのだが、・・・。それは発語体あるいは独り言体では、有票は「飲む」で、発声体の有標は「拒否」だからだろうか。
・飲まん、とす/飲まん、と云う/飲まん、と思う
・飲もー、とす/飲もー、と云う/飲もー、と思う
であれば、かつてどこかでいつか下記のような対文が正唱されていたのではとも考えられる。

・飲ませー、と宣する
・飲まねー、と罵る

cf.;・飲みなせー
cf.;・飲みねー


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