別解 「阿女都千ノ歌」

   『いろはうた;小松英雄』を手に手に取ったのは2000年だから、その後ずっと気にかけていた、というより気にかかってきたのだと思う。基本的には日本語音韻史からの最新の解釈ということであろう。だが理系出身で日本固有の文化、あるいは『日本語はどこから来たのか;津田元一郎』のような関心ではなく、日本語はどのような理論的構想に基づいて現在のような姿になってきた、あるいは十分になれていないのか、という関心からはまったく別の解釈が可能である。
    まず前提として三つの誦文〈いろは〉〈あめつち〉〈たゐに〉が多くの人によって取り上げられ、継承されてきたと考える。そうすると〈いろは〉〈あめつち〉の相違は単純でわかりやすいが、〈たゐに〉の方は難しい。まだ得心できているわけではないが〈四つかな〉に関する謎解きのような気がするとだけ書く。
    前二者の違いは以下のような正数の違いである。当然筆者は〈イ・ヰ〉〈エ・ヱ〉の分かち書きを在野の音声の差異とは考えない。ある時期の文化的指導者が弁別すべき音韻だと考え、それが世間に一定程度普及した結果が現在でも痕跡として残っていて、それを音声データとして取り出そうとすれば取り出せるのだという認識である。こういう立場を確信できるようになるためには西洋音楽絶対音感の信憑性や渡辺慧の「みにくいアヒルの子の定理」を勉強するとよい。
    さらに言うと、デカルトの「人は色眼鏡をかけてしか外界を認識できない」というcurseを逆手にとって、様々な色眼鏡をかけて外界を観察する方法を習得することが大切である。これにより他者がかけているであろう色眼鏡の性質を的確に取り出すことができるようになる。では本論へ。

いろは   47+2=7*7   七曜制   仏教・キリスト教
あめつち   48+2=5*10   五十日(ごとーび)制   大阪商人の決済日

  いよいよ、別解を展開してみよう。

かな書   現代語   外延   内包
あめつち   雨土   動体・終点   天為
ほしそら   干し空   干し物・自然環境   人為
やまかは   山側   中高・側面   測地
みねたに   峰谷   分水嶺・出水域   治水
くもきり   雲霧   外部認識・内部認識   移動
むろこけ   室苔   人工環境・出来物   変化
ひといぬ   人犬   殿上人・地下人   男社会
うへすゑ   上末   上臈・お末   女社会
ゆわさる   言わざる   未然・連体   無為
おふせよ   負う・為よ   自発・命令   行為
えのえを   兄の・衛を   所有格・対格   空間関係
なれゐて   成れて・居てる   已然・既然   時間推移


  ようするに、ここでは体言の語末〈へ・ゑ〉と、語頭〈兄・衛〉の4つの〈e〉が弁別されてる。それでは〈i〉はなぜ三つなのだろう。それはまず語頭について〈ひ・い〉を〈貴・卑〉に対応させるという一見もっともな規範をここで打ちたてたからである。だが猪は〈語頭ゐ〉のままで引き継がれてきている以上、語頭〈い・ゐ〉も健在である。しかし、これにより〈殿上人・地下人・非人〉の三つの階層を〈ひ・い・ゐ〉と、明確に書き分けられるという規範が成立したのである。
   〈i〉について、ここで言われていないにもかかわらず浮き上がってくるのは、動詞の語頭は〈い〉に統一されるべきだという考え方である。問題はすでに接尾辞化していた〈しをる〉や〈ひきゐるの扱いであったろうことは容易に推察できる。これらを詞とカテゴライズすれば動詞の語頭も〈い・ゐ〉となる。しかし両者とも基本形はル末であるから語末〈ゆ〉は下一二段専用となる。なんのことはない。五十音図の〈ワ行〉〈ヤ行〉の中三段を重複しないという規範を普及するのがこの歌の第一の意義であったのである。これにより多くの半母音の〈や・わ〉行の動詞の終止形を〈ゆ・ふ〉とし、動詞の語中語末辞に半母音の〈や・わ〉行を用いないことを規範化した。
    事実ワ行の下二段は〈飢える〉〈植える〉〈据える〉という地べた階級に関連のある動詞の古形のみである。 ここから先は検証が必要だと留保をつけて言うと、語頭・語末の〈は行〉を貴マークとして確立したということが大きいといえる。すなわち〈殿上人・上臈〉を〈ひと・うへ〉に対応させたということである。
    と、ここまで推理を重ねてくればこの「阿女都千ノ歌」の作り手と担い手についてもおおよその見当がついてくる。次の世紀には「平氏・源氏」として台頭してくる地下人の上層部、受領階級であろう。彼らが、自らの下の者たち、すなわち「手の者」「者ども」を「物体object」から切り離し、自らは「犬」から「人」へと上昇していくための語法を確立しようとしてのである。
     しかし、それは単なる差別のための差別ではなかった。だから〈い・ゐ〉は〈異・偉〉という対応として保持されていく。この辺の事情を的確に理解するには、このブログでも繰り返してきたように「貴卑同源」という色眼鏡の使い方に習熟する必要がある。
    ここで、〈ゆわざる〉について補足するならば、この段階では中三段だけに注目していて、五段全部に適用して〈は行音〉であまりに見事に統一することまでは考えていなかったらしいということである。現代にまで残っている助詞対〈は・を〉は最も重要であるにもかかわらず五十音図の構造を逸脱していて変な感じを与えている。それと〈行くユク〉<言うイウ〉という画然とした弁別も自然な発音からは違和感がある。〈言う〉であっても、前の語とつながるときは〈j〉が入る方が自然なのである。そのことを学校英語ではなく、音韻理論に習熟した英語教師から英語を習ったときにはっきりと自覚できた。
    結局〈行くユク〉が辞書に記載されているのは、これが助動詞として〈しゆく〉などのように使われる頻度が大変多かったためと考えるのが合理的である。
    〈ゆわざる〉以外の解釈としては候補はもう一つある。すなわち、〈うへ・すゑ〉とのつながりを重視するならば〈岩・猿〉とおいて〈静物・生物〉と云う解釈も可能である。それでも語頭の〈い・ゆ〉の音韻相通についての歴史的経緯については検討する必要が残る。しかし〈硫黄・いわう〉のようなおよそ子供になじみのない語彙よりは「手習い歌」の解釈としては順当である。
    そう、考えて〈やまかは〉に戻ってみると今までの解釈が〈川〉という具物に〈かは〉を当てる解釈であったことに気がつく。〈側かは〉であればこれは〈片はら〉の短縮形であるから〈かは〉と書記する必然がある。というよりあくまで〈側かは〉とおくために〈は〉を用いたと解釈すべきだと考えるようになった。となると、〈岩猿〉はともに具物であるから、〈jいわ〉と表記するのが妥当であるという主張がこもっていると解釈することも可能である。とすればもっと大胆に結論するならば、当時起こりつつあった「なんでもかんでも、は行」という風潮、実務と道理・論理を軽視して、敬語などのビラビラ尊崇にはしる風潮に棹さすことが狙いだったとも考えることができる。
    広辞苑の「硫黄イワウ」の説明には「ユノアワ」の短縮形との語源説が紹介されている。旧かなでは〈粟・アハ〉〈泡アワ〉と弁別することになっているから、なんの社会的価値もない具物は「ワ行」、という規範がかつて存在していたと考えることができる。
   なんのことはない後代の〈清音妄想〉ならぬ、〈は行妄想〉によって、素朴な手習い歌として考え抜かれた傑作が、ワケのわかんないありがたい歌としてみにくく変形解釈されて継承されてきたのである。げに換骨奪胎の見本でる。
   なお、広辞苑には「既然;已然形の古い名称」とあるが、「なんでも音便の広辞苑」らしいと、笑えてしまう。これでは日本人には、明治時代になって英語が入ってくるまでは、「進行形の概念」はなかったということになってしまう。そんな馬鹿なことあるわけないでしょうに。ただ公文書には進行形は不要だったということであれば納得はできるのである。


   さて、いよいよ文法や語法をはなれて、全体の構造(文脈)から別解を検証してみよう。まずは「ゆわざる」。これは「おふせよ」と対を作って「思」を構成する。「硫黄」や「猿」が、このテーマにふさわしいなどと考える人たちがあること自体、筆者には信じがたい。「思」ときたらまずは沈黙ではないだろうか。男は黙ってビールを飲むだけでなく沈思黙考するのである。その後に、殿上人ならば黙って命令を発する。地下人ならばまずは自ら行動にでて、結果の責を負ふのである。それこそが武士の美学であろうに。ごちゃごちゃ要らざることことをイワザルこそ男の本道であろう。言い訳などが必要なのは臆病者と責任のがれに汲々とする弱虫どもだけである。
    さらに言えば、「榎の枝を」という解釈もおよそ「恋」とは無縁の無粋な解釈だ。恋などしたことがない、でくの棒どもの仕業であろう。
    全体はは下記に展開する。

  雨が土にしみこみ芽がいっせいに出てくる   天為
    一日が長くなり干し貝作業もすすむ   人為
  山を拓きカタハラに草木を植える   人為
    怖いのは龍神さま、洪水よ   天為
  秋の長雨、雲霧はれぬ憂き   天為
    室では酒造り、麹を醸せば鱗がういてくる   人為
  収穫のおふるまい、飲めや唄への無礼講  
    ご馳走つくり、機織と、女たちは大いそがし  
  人は黙って考える   思考
    負ふとは自らの意思、せよとはお上の意志   行為
  兄の衛を慕う   思慕
    今は互いに慣れあって居てる   暮らし


■『日本語の世界4;中田祝夫』(09/03/08)
   『いろはうた』の中で初めて見かけた名前を図書館でソートしてみたら〈曰・云〉についての考察があった。諸説展開されているが、中国において特に古代には両者が弁別されていたのに、後代になってその差異が不明になってしまった、とある。
   であれば、わが国においても、漢字の洪水が押し寄せる以前に概念として既に口承正史の中で弁別する伝統があったとしたら〈ゆ・い〉あるいは〈ゐ・ゆ〉という対比があったと考えることは合理的である。そうであればその対比が緩むことを問題視するという立場は十分にありえる。