「国体」でないとは何か

   母が太平洋戦争末期にプロテスタントからカトリックになりたいと言ったときに祖父が言ったのが以下だっと聞いていた。
「国体を損なわない限りにおいて信教の自由は保障されなければならない」と。
  祖父の定義は共産主義にも延長されたようで、特高に拘束された縁者の世話もしていたようだ。自身は盧溝橋事件のあと、定年後のために手当てしてあった都内の土地を売り払って近郊に広大な土地を求めて家人に宣言したそうだ。
「列強すらが租界地で我慢しているのに日本が中国全土を蹂躙できるわけはない。だが中国を蹂躙しなければこの国が成り立たないと考える人たちが国を牛耳っている以上この国が成り立たなくなるのは時間の問題だ。成り立たない国が外国に蹂躙されるのは必定。まずは首府が蹂躙される。そして民は飢える。家長として家族だけは養わなければならない。だから土地がいる」と
   事実亡くなるまで、ジャガイモ。サツマイモ、玉ねぎは自給自足で、鶏もヤギも飼い、茶室の借景には竹林とツバキの木立を配していた。
  我が家に伝わる物語に登場する「国体」という言葉についていつかもう少し考えてみたいと思っていたところ、『日本国家の神(ママ)髄』が書店にあったので手に取った。題名のセンセーショナルさに比べて内容はまっとうであった。だが言語学的考察を少し加えてみたい。

こくたい

   日本語のお約束の一つは耳から聞いたのでは意味が多すぎて聞き取れないので、書き取る時に漢字を使って意味を限定していくことが一般的に行われていることである。逆にいえば、一つの漢字には音を介していくつもの漢字語の可能性を持っているものとして考えていかなければならないということになる。だとすれば以下の可能性をいつも頭において日本史と日本語史は考察されなければならない。

国体   存在
国態   現象
国堆   外延
くにがら

   上の「国態」に相当する語として流通しているのが「くにがら」であるが、そうであればこれもいくつかの漢字に書き分けられて、それが相い受けるという状態にならなけば基礎語あるいは重要語としては不十分だ。
   二つ目の漢字は容易にみつかった。それは〈唐・漢・韓→幹〉によった。日本では<韓>からは朝鮮半島を思い浮かべる人が多いが、三国志の中の東国の一だし、<漢>とも同音である。『大辞林』をみるとさらに<柄・故>も載っていた。<故>を時間概念と考えると以下のような整理ができる。

国柄   現象
国幹   存在
国故   初発

   ところで佐藤優氏の本の中に出てくる「惟神かむながら」という語も興味深い。これは「国故」に近い意味で用いられている。この漢字は戦後教育では教わらない。私は古い翻訳で、「我惟う、ゆえに我あり」とあるのを見つけて、これもいつかしっかり考えなければと思っていた漢字である。
   とりあえずは佐藤氏の著書にそっていくと「神=国」と変換でき、時間の経過としては「神→国」であるから、以下の同義語も「くにがら」に加えておきたい。

国故   完了
惟神   初発

   初発・完了については国歌「君が代」との関連で、以下の論考も参照してください。http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/nanayou.pdf


参考までに;部首や訓音を共有する漢字を列挙すると音韻イメージならぬ視覚イメージのつながりも見えてくる
唐・漢・韓
韓・幹・朝・潮 ;潮は塩からい
衛・偉・違