きれる・きれちゃった

  松本修の新刊をくっていたら、「キレる」が放送禁止用語になった「きちがい」の代替として出てきたという仮構が出てきてうなった。さらに<キレる・ムカつく>を対語にした語源薀蓄と続いていて、メディア現場の〈報告文書〉としては面白かった。内臓関連語句のオンパレードだ。さらに補いながら、メモしていく。

気がおもい   頭がぼーとしている   
気にさわる   気に入らない    気がめいる
気色が悪い   気持ち悪い   気味悪い
心気くさい        
歯軋りする   歯噛みする   
歯がゆい        
歯がうくような世辞        
後味が悪い        
頭がいたい      
頭にくる   頭に血が上る  
癇癪をおこす   シャクにさわる   カンにさわる
腹をたてる   むか腹をたてる   ムカつく  
業ふく腹がわく   臓がわく    腸が煮えくり返る
胸やけ        
肝がやける   後世腹がやける   後世がやける
肝が煎れる        
怒れる   イカれる  
ふくれっ面   怒りで顔があかくなる   目が据わる
頭にくる   かっーと頭に血がのぼる   頭から湯気をたてて怒る
怒鳴りちらす   わめきちらす   堪忍袋の緒がきれる
頭が割れるように痛い   胃がむかつく   腹がひきつける   腹に差し込む痛み    皮膚が焼け爛れる痛み
がんがん   むかむか   ひりひり    しくしく・きりきり    ほてる


   さて、上記のように整理してみると著者の松本氏にも文中に出てきたNHK放送文化研究所にも申し訳ないけど、〈理論文書〉としては物足りない。
    まず、この議論が男性だけでしか共有されていない結果、女性差別というよりも女性の存在を黙殺しきった考察を意味なく挿入することで女性蔑視の再生産を無自覚に行っている。たとえば、p139「(頭)痛い女」とは軽薄にベットインする女という意味だと一般化して断定している。だが関東では「頭が痛い子」というのは大人の思い通りにならない弱者一般をさす。学校歴史で習ったように「泣く子と地頭には勝てない」から、大人にとっては頭痛の種になるのであって、当該の弱者が頭が痛くて泣きじゃくったり、規範から外れた行為をしているわけではない。
    なにより識字教育をきちんと受けているならば、「きれる」から第一に想起すべき「堪忍袋の緒」である。それをいきなり「線切れ」に結び付けているというのはいかがなものであろうか。松本氏が個人的に悦にいるのはカラスの勝手だが、NHKの放送文化研究所が松本氏に対して、学識経験者ないし専門家としてのお墨付きを出して、視聴料で作られる雑誌、『放送研究と調査』年間10560円を、松本氏個人に無償で長期的に提供しているというのが事実ならば、その判断の適否には疑問がもたれる。私はNHKから何も受け取っていないばかりか、視聴料を2万円以上支払っている。その半分が大した能力もない人へ奉加料として支払われているのは不愉快だ。
    私も給与所得者だったときパブリシティを担っていたから分かるが、無償で何かをもらうということになんか特別な思いをいただくオジサンは結構多かった。そういうオジサンたちに迎合することで、つまり野合しあうことで社内のオジサンたちもそれなりの力を蓄えていく。つまり出世していく。だがそのような野合からは公共価値だけは生じない。
    さて、本筋にもどっていくと、、云わでもがなであるが、「堪忍袋の緒」は「兜の緒」と対をつくる。だから、ここでは「切れる」は「しめる」と対をつくる。つまり、紐は締めすぎてもいけないし、ゆるすぎてもいけないのである。それは、按配や加減が何より大事な世界だ。こういう風に連想が続くのを教養という。もちろん、こういうのは戦さ人の教養であって、都におはす殿上人やナニワ商人の教養である必要はない。そして国民皆兵大日本帝国から、一転、事実上アメリカの植民地となってしまった国では、男といえども、こんな教養がなくても大学で博士号をとったり、男でさえあれば野合しあって、NHK内部で大きな顔ができて、税金も同然の視聴料から、おこぼれを頂戴できるのである。


    さらに理論問題に踏み込むならば、声をベースに考えるというのがソシュール以後の構造主義言語の前提なのだから、〈きれる〉は〈いかれる〉と対にして、まずは考察すべきである。そうすれば以下のように語根解析ができる。

居る   率る   ヰる   入る   煎る   射る   鋳る
邪魔だ   引っ張られる   歯がうく   押される   煎る   さしこむ   わく
いられる   いかれる   うれる   のされる   煎れる・焼ける   じれる   われる
いらつく   怒れる   うかれる   むかれる   煎れる・焼ける   きれる   たつ
閉塞   伸張   乖離   膨満   火傷   裂傷   鋳型工程

    ここで肝心なのは〈ヰる:酢で歯が浮く乖離感〉と〈内臓に消化不良物が入ったままの膨満感〉を対と捉えられる身体感覚が残っているかどうかだ。それは現代科学でいうストレス攻撃と過剰物質侵入の二大概念における身体感覚の基盤を構成する。それを回復しないと、とりわけ一音節時代の大和言葉祖語をイメージするのは難しい。
    逆にそれができれば、小松英雄が「ら抜き言葉」で結論したように、ほとんどの目新しい流行語は中古ないし近世の復古語(リバイバルあるいはリユース)として捉えられるし、捉えていくことが日本語規範の伝統にもっともふさわしい考察だということだ。つまりは「不易流行・流行不易」「一切即全・全即一切」「色即是空・空即是色」などのカノンを末代まで引き渡していくことが不可能ではなくなる。それが、おぞましいまでにぐちゃぐちゃになっている無規範の現代日本語、その再構築のための希望の核となるはずだ。
 

    さて、ようやく、ここからが今日の本論。
    現代日本語における単語〈きれる〉の運用を考察するためには、見出しにたてた〈きれる・きれちゃった〉を対にするとよく見えてくる。単語ではなく語句としてきちんと捉えるということである。当然その前提には語句が使われる文脈や使う人の社会階層を十分に配慮しながら考察を進めることが求められる。もっとはっきり云えば、長い年月を経た識字社会の日本語を考察するときには地理的分布以上に社会階層分布に敏感であるべきだということだ。
    松本氏の理論的枠組みの貧困さは自己を関西人としてしか規定していないことだ。それがマーケッティング上の戦術である分には仕方がないが、学術の仕事をするときにには致命的な欠陥になる。松本氏は人類や、日本人や、関西人やメディア業界人である前に、オトコ、男なのだ。その特権を無自覚に享受している限り、人間文化の本質も、言語の本質も、日本語の本質も見えてはこない。
   いよいよ本論開始。
・刃がよくきれる
・切れる刃で切るときれいに切れる
・オッカムのかみそりはよく切れるから、その人の説明はきれいで分かりやすい
・つまりオッカムの頭はよく切れるのである。
・だが天才とキチガイ紙一重のたとえどおり、切れすぎる人はしばしば切れてしまって元に戻らない
・元に戻らない人のことを切れちゃった人という。
・一方、切れた人というのは単に堪忍袋の紐が切れただけであるから、結びなおせばいいだけのことである。
・つまり、以下の三つの語句をきちんと弁別できて、はじめて日本語話者としては一人前なのである。


1、切れる人;頭がいい人(その人に固有の相貌)
2、切れちゃった人;自己回復の可能性が低い故に、医者あるいは世情に通じた人の世話にならないといけない人 (医者に行けば新規顧客として歓迎されるが、世情に通じた人の処に行ったときは、その人の頭痛の種になる。)
3、切れた人、あるいは切れそうな人;はなはだしく怒った人に現れる一時的な相貌


メモ
両義〈が〉;頭が痛い子
(1)あの子は今、頭が痛い
(2)あの子には頭が痛くなる


語末たい〈重たい・眠たい・煙たい・冷たい・うざったい・口はばったい・じれったい〉
語末う〈重もむ・眠むる・煙むる・さめる・うじゃうじゃいる・口はばかる・じりじりと身をよじる〉


語末たい〈平ったい・平べったい・厚ぼったい・腫れぼったい〉
オノマトベ〈ひらひら・べらべれ・もこもこ・ぼろぼろ〉


語末たい〈かったるい・かったい・乞丐きつがい〉


温度感 〈アチッ・あつい・ぬるむ・ぬるい・ひえる・つめたい・いたい・いじる⇔いびる・禿びる・しびれる・やけちゃう・やけどしちゃう〉
形容詞 〈あつい・さむい〉〈あたたかい・ぬくい〉〈ぬるい・つめたい〉<しびれる・しばれる>