「セールスお断り」

    上の標語は現在ではありふれていて、100円ショップで手に入りそうである。とはいっても業界自体が縮小しているから近々死語になる可能性は少なくない。ところがこの標語の形式はかなりしぶとく生き残りそうであることを先日のNHKハイビジョン特集 「笑う沖縄 百年の物語」によって喚起された。
   戦前の東京には空きの貸家があふれていたのだが、差別的かつ侮辱的な張り紙が多く張られていたことが映像で示されていた。二行で構成され、「チョウセン改行ヲコトワリ」とか「リュウキュウ改行ヲコトワリ」とあった。これらは、かなり長い歴史をもち、そして日本語の典型文型【ます】【です】を復元できるのであるから重宝この上ない。だから生き残るだろうと考えた。
    つまり、上記標語は元の文型は以下の両様を従えていると考えることができる。そして長い間従えてきたと考えることも合理的である。

・セールスを、断ります。
・セールスは、お断りです。


このことが何故興味深いかというと、『いろはうた;小松英雄』で読み下されている「田居ニ出デ。菜摘ム我ヲゾ。君召スト。求食(アサ)リ追ヒ往く。山城ノ。打酔(ヱ)ヘル児ラ。藻干セヨ。得船懸ケヌ。」P92について、異説が導けるからだ。
   大矢透は勝手に原典46字のところ【於】を補って「求食(アサ)リ追ヒ往く。」と読み下して47字として復元している。だが定家の時代になって正字〈お・を〉が再定立されたわけだから、源順が「あめつち48字」を提案した後に源為憲がわざわざ46字を提唱していると仮構するならば、当時もそれなりの少数の人の口に上っていただろう「いろは47字」よりも少ない「46字」というのはそれはそれで意義のある仮構と言える。
   なにより、その直前が「菜摘む我ヲゾ。君召スト。」となっているのだから「アサリオイユク」では一番近い意味が「食求ヲ追っていく」となって「君召す」がどこかに飛んでしまう。
    やはり「君ガ召すから、アサるように、足をすりながらくねくねと美しく見えるようにイユク」という方が素直な読解になる。そしてこう読み下すときわれわれは江戸時代のアソビ女の代表である花魁道中のあの有名な足捌きを彷彿とすることができるのである。まあ、高校教師や大学の博士様には気に食わない連想だろうが。
   ここで「ヒ・イ」ではまったく違うという難詰が聞こえてくるが、すこし前までは語中には「ア行」はこないという規範も生きていたのだから、定家以前には語中では「ヒ」を用いても不自然でなかった可能性を慮外におくべきだとはならない。
    そして現代日本語においても上記の例のように「ヲ・オ」が息継ぎの仕方で相互に変位できるとすれば平安中期においてもそうでなかったとい決めつけるべきではない。だとすれば為憲が「いろは47字」よりも新しい「ヲ」のみを正字として旧来頻用されていた「オ」を廃字にしてしまう方が混乱が少ないと考えたことはある種の合理主義だったといえる。
   もちろん、こういう考え方が21世紀の日本の文人系の識者には耐え難いということも事実として勘案しておくべきである。だからいったんは1000字にまで限定した常用漢字を現在際限なく恣意的に使うことが文部省所管の学識経験者会議を経由して奨励されている。それもルビというコスト負担なしに野放しにして、出版業界に媚を売っている。
    出版業界では野放しなのに、人々の生活では、公文書を作るときには氏名のみならず住所にも完全にルビを手書きで添えることが強要されている。おかしいと思う。だったら〈渡邊〉〈齊藤〉〈小澤〉などの外国人から見たら分けのわからない屋号としか見えない記号を廃して、公文書の「住所氏名」はすべて<カナあるいはかな>だけを正字とするべきだ。だって、そうでなければ計算機で管理できないのだから。


    そもそもサンスクリット語では基本となる「50音図」という音韻理論を日本語にすべてそのまま持ってくるのは無理だと多くの人が考えていたのだから、「ア段」以外は「9行」で十分だという考えもありえたはずだ。すなわち〈イヰ〉〈ウユ〉〈エヱ〉〈オヨ〉の対を正字として、ワ行は〈ワ〉のみ例外としておままおいて、合計46字で十分だと。だが新しく〈ヲ〉を陳述文の中で頻用したいという要求が高まったのであろう。それを正字と認定するためには語頭にも使われてきた音韻だと理論づける必要があった。定家はそれをやった。それだけのことだったのではないか。
   最後に、駄目押しでいくつかの文例を想起しておく。そうすれば、すべての助詞を後接辞に還元している現代日本語文法を規定している古典文法なるものをひっくり返す手がかりが得られるかも知れない。
・このアソビ女を、往かせあそばぜ。
・あのアソビ女は、お往かせあそばせ。


・金を、くれ。
・金、おくれ。


・私を、放して。
・(私は)、お放し。


・春夫
・お春