カメラ目線;カメラへの目線

   先日NHKでは、オペラの公開レッスンの番組が流れていたが、そこで先生は歌手たちにはっきりと歌手の身体は歌手のものなのだから、演出家があなたの身体を不自然に使うように命じてきたら、断固として交渉していいなりにならないようにしなければならない、と言っていた。サッカーだって、試合のときには監督の指示は絶対かもしれないが、試合を離れたら自分の頭で考えてきちんと周囲と議論を積み上げていくべきだ。間違った日本語を押しつけられて抵抗できないのであれば馬鹿なサッカー選手にすぎない。
   公共広告における、オシムと西田母娘の明暗を分けたのは「商業媒体」に出ることのリスクを理解していたかどうかにある。オシムは救命救急士という職能団体からのカメラへの目線の要求を断って自分を風景の中に埋め込んでいた。だが西田母娘はカメラ目線バッチリで、歴史と伝統があるということはそれだけ暗部も大きい、それでも一職能団体にすぎない日本医師会の断定と命令とを代行体現してしまっていた。だから、好感度の反対のうんざり度が跳ね上がってしまったのである。
    あるいは、先日、菅首相のカメラ目線が、弱いことをなじっている論語の専門家である大学の先生がいたが、この人は現代心理学についての素養が皆無である。つまりは古典のエッセンスについても不十分にしか理解できていないことがばれてしまった。
    首相の立場と個人の立場を可能な限り弁別しようとすれば、多数の刺客の紛れ込んでいる民主党と、さらにはいい学校いい家庭を出ただけで自分は首相になる資格があると思い込んでいる人たちの神輿の載っているだけの首相として、目線ばっちりで公衆の前に出てしまったら、「ここ一番の勝負」の時に目線という武器の切れ味が鈍ってしまうではないか。
   どこかのテレビで、日本医師会御用達のコメンテンーターは、菅首相が、「私は出来ることしか口にしない」と言ったことを取り上げて、無責任で横暴だと一刀両断していた。この人もまた、リスク管理ということを理解していない。だから口では客観報道に命をかけてきたと言っても、個別の政治利益誘導団体の広告塔を引き受けてしまうようなのめり込みを映像でさらけ出してしまうのだ。
     民主党マニフェストにいくら「子供手当」のことが明記されていても、党と党との妥協で、それが反故になったとしても首相の座は傷つかないが、菅氏個人が公衆の面前で「子供手当」を確約していたら、菅氏は首相の座を降りなければならない。<個人の言>と<集団のマニュフェスト>のどちらが重要かと云う事をこのコメンテンターは全く理解していない。
    そういうリスクを理解していなかった自民党の某首相が突然死してしまったのは記憶に新しい。

相手の目を直接見るわけでない、テレビの録画画象にはカメラへの目線を残さないのが正解である。

相手を本気で説得したい時には自然と目を見て話す。だからこそ、なんでもない時に目を見られると、威圧感を感じる。だから日本語では目を見てはいけない人のことを「目上」とよぶ。この人の目を見ようとすれば、その人の上に覆いかぶさらなければならない。そのようにした人は、自動的に「無礼者」となるように日本語は設計されている。
    そしてそのような無礼が生じないように目上の人の前には御簾が掛けられていたり、目上の人の近くには寄れないように座が設計されていた。だが一方で、目上の人が「苦しゅうない。近う寄れ。」と発声すれば、そのような禁忌は氷解するということも、時代劇は教えている。