「反原発」原理主義

   少し前に「反 原発依存」か「反原発 依存」かという政局がらみの話題があったが、今度のは少し違った見方が必要だ。雑誌「VOICE」の広告によると、日下公人ら三人がこの題で論考を行っているらしい。だが、こういう言葉使いを放置しておくと日本語はどんどん劣化して、世界に開かれた対話の道具とはなりえなくなってしまう。
  原理主義原理主義であるためには自立していなければならないから「原発原理主義」というのはありえても、「反 原発原理主義」というのは意味をなさない。
    だから西洋では、これを「人工放射線原理主義」という。その反対は「原発」ではなく「核エネルギー原理主義」。特にアメリカでは原子炉だけでなく、原子爆弾も人類進歩に貢献しているし、これからもしていくという立場は大きな力を持っている。
     そして「人工放射線原理主義」運動を飼いならすために巧妙に仕組まれたのが、「人工発がん物質原理主義」。これによって日本人は3.11まで、「人工放射線原理主義」についてほとんど知識を持たなかった。私も20ミリシーベルト問題について考え始めるまで、ほとんど理解していなった。知っていたのは「禁酒法」の再来世界版とも見まがうべき「禁煙法」だった。
    だが、「安全な人工放射線は存在しない」という「人工放射線原理主義」の定義を知ったことで、レーガン以来の大きな科学技術思想の潮流を一気に肌身で感じることがっ出来るようになった。そして今ではこの定義を理解することなく、一市民として原発問題に責任ある意見を持つことはできないのではないかと感じている。
   なぜならば実在するものは外延であるから二項で認識しないと共通の議論ができない。そして、この二項はヤヌスの両面のように一体不可分なのである。だからこそ議論が進んでいくのである。



二つの原理主義
    人工放射線原理主義
    核エネルギー原理主義