母語か母国語か;その3ー「国民総生産」と「国内総生産」と

    先日NHKのニュースで「国民総生産」と「国内総生産」の用語を取り違えていたというお詫びがあって、「ああ、違うのだ」と知って、少し調べてみた。
国民総生産 GNP:Gross National Product (2000年からはGNIへ)
国内総生産 GDP:Gross Domestic Product
国民総所得 GNI: Gross National Income


これで、前回 "united kingdom" はあっても "united country"がないと書いた意味が、自分でもやっとわかってきた。そもそも学校英語では "domestic" を家事とか家庭的と第一義ですり込むからわからなくなるので、第一義は「内外」なのだ。だとすれば「国語」の訳は以下でなければならない。
国語→内国語文→domestic language
外語→外国語文→foreign language
    
そして前回とりあげた「国語・地口」は以下になる
国語→公用語文→national language
地口→域内語話→native language (文末参照)
     
      なお、たまたま図書館でみかけた『チョムスキー田中克彦』には「母語」単独では出てこないで、以下のように使われていた。
母語の話し手、ネイティブ・スピーカーの提供するデータ、つまりコーパスは、記述主義者にとっても、チョムスキーをふくむメンタリストにとっても、もっとも重要なものであり、すべての出発点である。  P147」
     要するに文化人類学でいう informant がnative speaker であるということだ。これならばたしかに訳語に nationality を介在させる必要はない。「域」を用いて「当該地域の話し手」となる。逆語序の「話し手の母語」は「 speaker ‘s native language 」。
  ところがよく考えてみると、ここで「母」を持ち出したのもいかがなものか、となる。そもそも日本語・日本文化では「天神地祇」が基本にあって、「地祇」を中臣氏がとり、それを後に武門の実効支配者が引き受けてきたので、残りの「天神」が「非藤原氏」「非武門」「非家長・男親→女祖」に割り当てられてきたのである。だから「母」を「母なる自然 mother nature 」に、そして「父」を「天主 the divine Father 」に関連づけてきたキリスト教文明とはイメージが逆になっている。
さて、言語学の話にもどって、上のことはまた、文字を持たない informant について観察された言語資料、つまりコーパスというものがどれほど客観的であり得るのかという疑問を根源的に導き出してしまう。コーパスというもの自体が特定の分節音韻体系で訓練された研究者の聞き取りに依存して作成された書記体系 (corpus解剖標本) に過ぎないからだ。
   たとえば、音韻理論を持っていないはずのカラスの声であれ、蛙の声であれ、記述言語学的に文字起こしをすることは可能である。もちろん言語学の場合は informant との対話によって文意・語義の裏打ちを同時に収集するのであるが、そこに観察者の恣意というより無知が入り込まない保障はない。
   たとえば岩波新書からでている『犬は「びよ」と鳴いていた』を一瞥すると古典書籍時代には「ぴよ」で、現代は「わん」であると主張しているようである。そこに学者の思い込み還元主義が色濃く反映している。生活者なら犬の鳴き声が一種類であるとは考えない。鍛えられた常識が身についていれば、生物は一般的には、少なくとも「内外」の相手では声色を変えると考える方が論理的だ。このことは、なにも犬を飼っていなくても赤ん坊を自分で育てていればすぐに気がつくことでもある。
   赤ん坊は元気よく「オギャー」生まれ出て、乳を欲しい時や、注意を引きつけるためには「ギャーギャー」騒ぎ立てる。ところが幼児になりかかると駆け引きができるようになる。そうすると騒ぎ立てるだけでは引きつけられない注意を「ピーピー」と泣くことで獲得することを覚える。つまり「身内・外部者」の弁別をしているのである。
   それは犬が外敵に「ワンワン」と吠えるだけでなく、母犬に対して「クーンクーン」と甘えることができるのと対応する。だとすれば「ピヨ」「ワン」という二つのコーパスが得られたとして、その事実を短兵急に歴史言語学のみに思い込み還元するというのは反科学的だということになる。そこにソシュールが「共時態」にこだわった最大の理由があると私は考える。
    つまり、旧石器時代の始まったとされる500万年前から今日までを一つの時代として読み解くことによって、我々の中の多様性を正しく認識することができると考えたのだ。別の言い方をするならば、これらの多様性をつらぬく一貫性を抽出しない限り、我々の本質を浮かび上がらせることはできない。この原則を忘れた学問は文字として残されたコーパスの細部に引きずられて、結局は流派間の論争に終始して人類全体、すなわち人類の一人ひとりへの貢献は乏しくなる。



逆語序対対1;語文・文語(語と文と・文書の言葉)
逆語序対対2;語話・話語(語りと話しと・話し言葉
逆語序対対3;流派・派流(主流の派閥・派閥の流儀)