母語か母国語か(その2);音韻イメージ〈NATION・NATIVE・NARRATE

『脳の科学史』という新書があって、著者は日立製作所フェロー・元日本分析化学会会長。2001年から2009年まで現・科学技術振興機構で「脳科学と教育」「脳科学と社会」の主査を務めた人物。
 ここでは、母語母国語問題について以下のように書いてある。

「余談ですが、なぜ母語と言い、母国語とは言わないのか?母国語は国の概念が入るから良くないという人がいるのです。だから母語とすべきだという人が多いので、気をつけています。母国語ではなく母語です。  P147」

    もちろん、ここの文脈では赤ちゃんの言語習得に関する科学的知見を扱っているから、「母語 mother tongue」で正解。だが、国家が行う公教育である学校教育を通して獲得された言語はもはや母語とはいえない。母国の国語、すなわち「母国語 native language」でしょう。
   問題はここに来て、日本学術会議や日本のトップ企業で高い評価を得ている人物が「文脈・脈絡」についての考察なしに「考えの人が多い」という理由で択一を繰り返すことに何の疑念も持っていないことだ。
    これでは、いくら東大のアイソトープ研究の権威が、放射線の1msv以上は危険だといっても、多くの常識人はついていかないであろう。この国は政府だけでなくマスコミはもちろん学術団体も右顧左眄している輩の集合に過ぎないということだ。彼らの結論は多数決原理というポピュリズムに支えられているのだ。民主主義国家では政府が多数決原理に引きずられるのはやむをえないとしても、それだからこそ、言論人や科学技術の専門家は右顧左眄するのではなく深い洞察と、鍛えられた常識の行使を心がけるべきなのだ。そのような専門家が不在であれば政府が無能と混乱をさらけ出すのは当然過ぎるほどのことに過ぎない。
    こういう人々が寄り集まって公金を分け合っている「科学技術振興機構」は、普通は「科学と技術とによる立国振興のための機構」をイメージするが、正確には「科学なき技術による国土汚染と国民の脳内階層構造破壊によって国家を内部崩壊させる機構」と呼ばれるべきだ。
    私自身は、その後フリーランスになって、「重量weight・mass質量」「主語subject・topic主題」などの学会や教育界を巻き込んだ「用語ヘゲモニー闘争」にコミットしてきて、もううんざりしているのだが、最近、脱原発運動系統の人たちの議論の中で「国民・市民」という「用語ヘゲモニー闘争」があることを知った。どうやら「くにアレルギー」が存在し、サヨク運動の中で peer pressure(戦中の日本人エリートについては同調圧力、最近の下層の若者については空気を読む能力という) の道具として日本では「用語ヘゲモニー闘争」が未だ健在どころかますます繁栄しているようなのだ。もうあきれてモノもいいたくないが、生まれ育った土地に住むもの同志の困難であるから、少しはお役に立てればと思って考えてみた。

国民・市民・住民

    これもインターネットで散見しただけだから、嘘か本当かはわからないが「民主党日本国籍を持たないいわゆる在日といわれる住民たちに選挙権を公約している」というのがあった。
    だが、市民を介すると住民と国民を一緒くたにすることは案外容易である。県政や市政には外国人でも住民登録をしていれば参加させてもいいではないか、という議論はありえる。問題は国を越えたような国際問題を議論するときに、多くの場合サヨク系の学識経験者であるが、「国民」という用語を焚書坑儒してしまって、「市民」という用語で自分の学説を固めて哲学や政治学を語っている人たちが多いという現実である。
    ここでも政治家以上に学術専門家の劣化が問題である。これはノーベル賞の獲得数や各種相対優位競争での好成績は指標にならない。質の問題だからである。

nation・state・country

   英語では三つの用語を階層化して弁別している。そして「鼻音・舌音・喉音」という言語学でいう発声部位との対応もきちんととられている。日本語、特に漢字二字語は音韻のつながりがメチャメチャだから日本語の語彙と対応させるのは骨が折れる。だが、ゆっくり考えてみるとそれなりの対応関係が見つかる。当然なのだ。音韻理論は中央アジアで発達してそれが日本や英国まで伝播したのだから。
  そして、ご承知のように〈united nation〉〈united states〉〈united kingdom〉はあっても〈united country〉というのはない。
    一方、〈sate→station〉を導くことは容易である。そこが分かれば、歴史的には国境などいうものは庶民とは無縁の概念であり、点在する町や村を結ぶ道というのが世界のイメージの中核だったことがわかる。だから「国ざかい」というのはあっても「村ざかい」というのはあまり聞かない。「村はずれ」まで行ってから隣の村はずれまでは道を行くことになっていたはずだ。とすれば〈road〉を加えて四元系の語彙構造を導くことができる。すなわち両対義語を取り出すことになる。
・station−road;(load、つまり荷の行き交う交通体系)
・nation−country;(豊かな恵みをもたらすnature・nurtureの中に点在する囲み地・圍み地・窪地)
  これを日本語語彙体系から導くためには〈地→ナチ〉を以下から引っ張ってきて
    参照文献1;http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/nawi.pdf 
(音韻イメージ 〈なゐ・地震〉)
その上で、以下。
・村々−道;(つみ荷の行き交う、くねくねにょろにょろした道の体系)
・大地−囲み;(豊かな恵みをもたらす地や池やの中に点在する國域)


これの言語生活のイメージは以下のようになる
・statement−language;
(住民同士が議論するための明晰な言葉、住民間のやり取りのための流暢な言葉)
・narrate−count;
(生活経験や知恵を伝承する語話、やりくりに必要な自分おぼえのためのもごもご語)

mother tongue・native language

それではいよいよ本論に戻って〈母語・母国語〉の音韻イメージを抽出してみる。

mother   murmur   make   marine・mountain
tongue   tell・talk   take   tide・terrace
native   narrate   naked   nave・nates
language   linga   lake   lade・late

    上のように語彙を展開してみると、それぞれで〈処名詞〉が〉導かれる。それぞれ〈海あま山やま〉〈突堤〉〈おしり両丘〉〈内海〉である。やっぱり以下の両対語が導かれる。
・marine・mountainーterrace:
(あらゆる生命をはぐくむ天地(あめつち)に突き出た突堤、そこに暮らす家族共同体)
・natesーlake;
(内海を挟んだ両地域)
   だが、差別語狩りの好きなお上品な明治期の学者たちは〈native language〉の訳語としてまず思い起こされた「現地人の言語」のイメージに怖けづいたのであろう。
    それで〈mother tongue・native language〉の両語を一つの〈母語〉として訳すように内部基準で決めてしまったのであろう。だが両語はことなる階層に属しているのだから、階層が問題になるときには弁別できる両語を使わなければ議論の生産性は上がらない。これは英語圏でも同じようにしてlocal language という言葉が生み出され、混用されている。だが、所詮は〈local→log〉を導くことができるからイメージはroad同様細長いものである。だから「local」と「native」とはイメージは重ならない。要するに、local language は交易を前提とする語彙であって、交易以前の自給自足社会との重層性は顧みられない語義である。
   従って、「weightとmass」を訳し分けなければ日本語は科学技術の世界で生き残ることができないように「mother tongueとnative language」の両語も別々の訳語を与えられるべきだ。
    それでも、どうしても、「くに國こく」を使いたくないのであれば「いき域」を使って「母語・域語」とするしかないであろう。「ある囲み」なのか「ある土」なのかの違いに過ぎない。だが、すでに方言の置き換え語として「地域語」というのが流通してしまっている。それとの弁別に課題が残る。さらにいえば「global language・local language 」という対では「国際語−地域語」が使われているから、やっぱり紛らわしい。というようなことを考えていると、「だから日本語では世界で通用しないのよ。これからは英語よ」となってしまう。だが、本当に時々刻々変化する状況の中で主体的に生きようとすれば、やっぱり母語に裏打ちされた言語コミュニティは必須である。
  一方、文部省が配る教科書に採用される言語は何か、にということになれば「国語」という言葉が残る。だとすれば元々の日本語にあった「地口」を持ってきて、以下のように定義をきちんとした方がいいと思う。

mother tongue ; 母語

    文字通り、母親からの言葉、これには母親の胎内にいるときに聞こえていた地域の言葉の記憶も混じるが、両親や祖父母が意識的に教える単語や語句が中心で英語では”utterance”に相当する。親なり大人なりが子供の生活の全体をおおむね把握している文脈での使用が前提。例示すれば「メッ!」「シーッ!」「あーあ!」「いーい?」「こっち、こっち」など。
  日立製作所フェローは母語自然言語と定義しているが、子供が自然にしゃべり出した「ブーブー」とか「マンマ」などの幼児語母語の中核と考えるなどとんでもないことだ。
母語の中核にくるのは概念習得のための記号である。たとえば、「あーあ!」「いーい?」。この対のutteranceにより、陳述文と疑問文のイントネーションを獲得すると同時に言語コミュニケーションの双璧を概念として獲得していく。ここにおいて、母語は徹頭徹尾、人工言語である。だからこそ、母語を与えられずに、ほっとかれた子供は社会への適応障害を起こす。そしてこの時、大事なのは教える側が子供のほぼ全生活を掌握していて、文脈対応という言語技術の中核の獲得に心を配ることである。だから今のところいきなり保育園のみでの養育はリスクが高いのである。
なぜならば「いーい?」という働きかけを通して、子供は応答主体としての「わたし」だけでなく、判断主体としての「わたし」を獲得する。「いーい?」を繰り返し投げかけられることで状態・態様に応じて選択的に生きていく「一貫したわたし」を獲得していくのである。さらに、親は「いーい?」に対する子供からの応答を評価尊重することで子供の中に「肯定的わたし」を涵養する。
一方で「あーあ!」を通して、とりわけ「覆水盆に返らず」のような時間の不可逆性と「その場」に居合わせた客観存在としての自己の未必故意責任者意識までをも獲得していく。そのためにこそ大人は全身全霊で子供の「今ここ」を把握し、必要に応じて記号としての音声を投げかけていく。
なぜならば、人形の腕が取れてしまったことから、ペットの死に至るまで、その先に私たちが受け入れていかなければならない多くのカタストロフィ(小は兄弟げんかから戦争、犯罪まで)があり、その時の仰天と悲しみを共有することが共同体の本質的な意義だからである。そのような母語教育によってのみ、子供は記号一般の意味の多重性と文脈依存性という自然言語の本質を体得していくのである。
日立製作所フェローがどのように音声と子供の応答とを高次のMRAやMRIで図像化しようとも、それは「種子」の存在を認識するだけで、その意味は図りようがない。「意味」は、その子が生涯をかけて獲得して、そして発現させていくものなのだもの。眼前にどれだけ多くの図像を展開してもその被験者の可能性ある未来を映し出すことはできない。できるのは必ず病を得て死んでいく存在としての私たちの可能性だけである。だからこそ日立製作所のマーケッティングは医療業界に照準を合わせている。
    本論にもどっていうと、子供は、母語の習得を通じて、「自他」「内外」などの空間把握や一般固有名詞と名ざし固有名詞などの階層性の弁別だけでなく、「世界と自己と時間の物語」を習得していく。当然それらが、責任感や瞬時の危機対応判断も行っていくための内的基準となっていく。従って、その後に国語や外国語を習得していっても、原初に獲得した、というより3歳、4歳頃までに大人によって繰り返し教え込まれた概念との緊密な関連が弱ければ、それは自我を育てることにつながらず、外界の人と豊かなコミュニケーションを可能とするような言葉にはならない。それは、「ものまね語」で終わる。
 参照文献2;http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/russell.pdf 
「ある実務者の論理」
  もう一つ大事なのは数で、数については母語では4までで、和語では「ひー、ふう、みー、よ」。中国由来の場合は「にー、しー」でおわり。それ以上は「数え」ではなく、「数すう」であって識字教育とともに導入される「国語」と認識すべきだ。それを3歳児に求めていくと、「犬・猫」の弁別ができないのに、「ブルドック」や「シェパード」などを判別する、「ものまね語」話者ができあがる。

native language ; 国語・地口

    これは”native”を二つの層に弁別する必要がある。すなわち”nation・nature”。それぞれ「国家・大地」。「国家」の方はすんなり「国語」で決まると思うが、「大地語」というのはおさまりが悪いので検討する必要がある。
    言語一般の重要な本質は、歴史の中で、正唱法とそれにひき続く「書き言葉」の浸透によって、言葉が内部集団の階層分化をもたらし、それを固定してきた中心技術だということがある。それで、公定教科書の基準になる正書・正音にそったものが「国語」だとすると、それ以外の古い形や変化しつつある形、あるいは個別の地域に共有される文法・語彙の体系など様々な背景をもった多様な言語体系は、文字、とりわけ正書で伝承してきたものではないということを特徴とすることから「地口」の方が「地域語」よりも歴史に根差していて一般社会ですでに用いられているという点からも、私としては推薦したい。
   この「地口」について補足するならば、それはlocal language とは異なる概念だ。あくまで地域集団内でそれぞれの母語を基礎にして集団内のコミュニケーションを図るために集団によって訓育されてきた言語だからである。つまり「地口」というのは、学者が他の世界の言語と弁別するために作り出した「local」の概念ではなく「native」の概念にくっついているものである。
    別の言い方をすると、「Japanese language日本語」 は 「local language 」であり、鳥の目客観主義の世界が必要とする存在語である。一方、「国語と地口」とは「native language」であり、それは一人ひとりの人間にとって当たり前になじんできた現象をさす。

 language・tongue

    次に言語学の勉強をしてきて気になったことをもう一つあげておく。ソシュール言語学で重要な概念として「ラング・ランガーシュ」というのがあるのだけど、英語にどう訳すのかについて書かれたものを見たことがない。英語では「tongue・language」と訳すのではないかと考えてみるといろいろなことがすっきりわかってくる。日本語では「口・句」あるいは「舌・話」なのだ。日本語では明瞭でない話し方を「口ごもる」とか「舌足らず」とか言うことと対応している。
   「口・舌」から出てくる声がtongue「句・話」で、そのうち分節されていて、さらに長く展開されたものがつまりlanguage「語・詁」なのである。(この項2014/10/2に補正)
   ところがlanguageを「言語」と訳したっきり、手を入れていないので、さらに訳がわからなくなっているのが現状だ。これはさらに「云々・言」と「語文・文語」の四語に展開して、それを共有しておかなくてはならない。「云々・言」については文献2で考察したが、ヴィトケンシュタインの「自分が耳にした声は云々と云っていた」と「吾が口にした言に二言はない」に対応する。
さらに、「語文・文語」は以下の文献3で展開したように「語と文と・文書に見られる語〈古い語)」という意味である。すなわち発話される語文と文書中の語文の両義となる。
 参考文献3;http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/seidakon.pdf 
 「日本語の深層にある正濁音対概念 」 
    ここまで整理すると、学校で習う「英語」「日本語」の構造が見えてくる。これらはそれぞれ「英国の語文」「日本国の語文」であって、それぞれの国家によって一度は、「正唱」「正書」と定められた規範となる言語と文書を土台にして作られた語文のことである。それは、元来は、それぞれの地域の共通語というよりは、それぞれの領域を支配する上層階級の地口を土台にしている。
     江戸時代でいえば薩摩の「お篤」は何不自由なく、文字を読めない下層の人たちとも、識字階級である父やその同輩と「地口」で日常会話をしていたが、藩主の養女となってお目見え以上の人々の用いる正調薩摩語にふれ、その上で、京都の近衛家に入って御所言葉を身につけて後に、やっと江戸の大奥に入るのである。そのどれもが敗戦後の日本国にあっては「地口」に過ぎない。それは大和言葉祖語と同じように、書かれた記録とそれぞれの地域や階層に残る痕跡から復元するしかない、祖先の言葉である。 「母語」というよりは「祖語」と呼ぶべきものであるが、「祖語」も現代日本ではnative language の訳語としては採用されにくいであろう。困ったものである。
    もう一つ補足すると「話し・語り」の位相の違いも大事である。「話し」には起承転結は必須ではなく、落語であれば「おち」や「当意即妙」が中核に来る。一方、上位者から下位者への「話」の場合は結論の諾否が中心にくる。だから卑語では「言いっぱなし」ともいう。俳句もこの系統に属する。それを座に組んで娯楽にしたのが俳句運動だが、そこでは座主が評価をすることで一種の闘技に仕立てている。が、本来は受け手に解釈と評価をゆだねるための芸術形式である。一方、「語り」は話をつないで物語を編みだし、聞き手にそれを真実として受け入れさせていくマスコミュニケーションの中核にくる技術だ。だから卑語となれば「騙り」となる。

 language・slang

  最後に、この問題も考えておく。「slang」について、英語研究者に評価の高い「リーダース」には「卑語・隠語・符丁」などの説明しかないが、中学高校の先生に圧倒的に支持されている「ジーニアス」には「専門用語」が収載されている。要するに特定の集団内でのみ流通する符丁のことである。
大事なのはlanguageを崩して社会の迷惑にまで単語を意味不明にさせるのは下層階級の人々だけでなく、既得権益層である専門職業の人々も、大きな存在であることである。それが一般社会を舞台に繰り広げられるのが「用語ヘゲモニー闘争」である。
これを防ぐには、社会歴史的な発展経過を踏まえた語義の重層性を明らかにし、社会全体で共有していくことが求められる。
その時に、日本語と英語の違いは2000年以上受け入れてきた漢字の使い方にあることに留意する必要がある。
英語では発声部位ごとに繋がりのある語彙が詩人や演説者によって使い続けられてきた伝統があり、それによって、同義語でありながら、同時に意義の分節を人々が共有することが可能になっている。
だが、日本語の語彙は音韻だけでは繋がりが見えてこないで、漢字の「形」が「義」を支えていることに注意しなければならない。そのことを踏まえた上で、多くの単語を注意して語彙化し、さらに歴史的な意味の変遷と結果として残っている重層性を読み解く作業が必要である。
以上