三菱電機よ!大丈夫か?; 積載質量

midoka12011-09-27

   このブログの読者はすでのご承知と思うが、筆者が会社を辞めたのは「重量・質量」問題が契機である。
   「一貫性の科学・確実性の技術」  http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/consist.pdf
   「音韻イメージからさぐる「度量衡」概念の推移」   http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/otodoryoukou.pdf


   その後オムロンが事実上、「体重量計」にすぎないものを「体質量計」として大々的に販売推進している。一方、最近JRでは車内の荷物台に「重量は10kgまで」のように「重量」を公認した。家電業界は相変わらず「撮影時質量」などという訳のわからない用語を使い続けている。
   エレベーター業界は以前に用いていた「積載重量」から「重量」を削除して「積載  **kg」などのように運用してい例が多い。ところが今日たまたま隠れ家的なレストランで食事をしようと思って小さな雑居ビルのエレベーターに乗ったところ、ありました。「積載質量 **kg」。
これが三菱電機製であった。業界トップシェアの会社である。三菱地所の構造物のエレベーターのほとんどを手がけているというから、丸の内の日本の顔となるようなビルでもこのような表記をしているのだろうか。今度「新丸ビル」にいって確かめてきたいものだ。もっとも、三菱電機は以前から二番手の日立製作所とは考えが違っていて、「積載」ではなく、「積載容量」あるいは「積載量」を用いてきている。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Elevator-280kg.jpg
    これはこれで一つの見識である。なぜなら「積載」では「用言」であるから、完全な名詞としてはすわりが悪いという感覚は、日本語話者としてはかなり筋がいいのである。ま、それはそれとして、どうやら、三菱電機は公正取引法で使われてきた「容量」を捨てて、電機業界の思惑に倣ったようである。まだまだ家電市場に未練があると言うことであろう。
     詳しいことは繰り返さないが、事の発端は中学理科教育で、「力の単位はニュートン、質量の単位はkg、重量は重力量の省略語」と、自分たちだけがいい気持ちになれる用語法の注入教育を画策した人たち(セクト)の存在があったと言うことだけは繰り返しておく。


   なお、ついでにNHKの性懲りもなく日本語・日本文化の特殊性を日本人にすり込むための番組の予告を見つけたのでお知らせします。ここにある「高度文脈依存性」は日本語の特徴ではなく、母語・母国語話者同士ではいつでもどこでも行われています。それにより文を短くして言語行為を効率化し、一方隠語や符丁を使って仲間内だけで了解し合うことが可能になるからです。それの弊害もまた、どこの社会・歴史段階でも認識されてきて、「礼儀正しい」とか「明晰」と言うことが言葉の使い方の規範として繰り返し鍛えつがれてきているのです。
  もう一つの「場の空気、場違い」について、これを重視しないエリート教育があったら、その国の存在を教えて欲しいものだ。上昇志向とは上流階級の「場の空気」や上位者が考える「ふさわしい場」などを素早く読み取って、それに適応できる能力を身につけて行くことなのだ。
    この問題についてもっともきちんと切り込んだのはラッセルです。チョムスキーとそれ以降のアメリ言語哲学ラッセルの簡潔で実用的な言語理論を歴史の彼方に消失させる運動だったのだと今は考えています。反核運動を担う若い日本人にはラッセルの科学者としての、とりわけ論理学者としてのラッセルをきちんと勉強して欲しいと思います。
  「ある実務者の論理」  http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/russell.pdf
以上


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【参考資料】第1回「“僕はウナギだ”を訳せますか?」 http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/lecture/111002.html

「日本語特有の表現を例に挙げ、高度文脈依存の言語の背景にある日本人の自己構造を探ります。また、他の言語にはない複数の一人称の使い分け(相手に応じて「オレ」「ボク」「ワタクシ」「オトウサン」「センセイ」など)は何故なのか、また、「場の空気、場違い」など日本人が大切にする「場」とは何なのかなど、意識せずにいた特異な点を明らかにしていきます」