音読はどうする?;「我が輩は猫である」

    小説『我が輩は猫である』の連載が始まった1905年の頃についてwikiで調べてみると、なんと、小泉八雲の後任として第一高等学に招聘された漱石は、その「分析的な硬い講義」が不評で、学生達は八雲の留任運動を行った、とあった。ちょうどその頃日本は日露戦争に勝って浮かれはじめていた。そして、その後21世紀の今日に至るまで、「は・が」問題は多くの文学博士誕生の功績を担っている。そして文学博士はたいていにおいて非論理的というより論理忌避症候群集団を形成している。
   そのことをフレーゲよりも19才若い漱石は予見していたし、それは日本語の問題ならば、『枕草子』読解の課題からきていることもわかっていたのである。それは全数論理と背反論理の双方への習熟という課題である。
    背反論理の世界では二者択一が原理原則である。現代言語学のprincipleに即して言えば「存在論では二項対立、現象論でいえば相補分布」問題である。それについては前項で展開した。http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20120502
    さらに漱石はこの題名で全数命題についても課題を仕込んである。つまり「我が輩は猫である」とは二重の「言語算学」なのである。解かれるべきを待つ算学である。
     これは以下のように解く。

我が族(ヤカラ)は猫族である

     つまり題名は二重の訳が可能な日本語として提示されている
    I am a cat.
       お控えなさって。我が輩はしがない猫一匹でござんす。名は未だございません。

      I am one of the cat family.  
       私は未だ名乗るほどの者ではございません未熟者ですが、皆様ご存じの猫の一族でございます。
    ここで大事なのは、第一に英語の【a・the】、そして【直示文・陳述文】。その二重性が仕込まれているのです。漱石が言いたかったことは、第一に構造であり、論理だと言うこと。それは文脈からしか決められない。ただし、英語文の場合は【a・the】が重要な手がかりになる。
     では日本語では、その手がかりは何かというと「は・が」なのです。それを日本語教育の世界では【は・が文】と名付けて重要文型として取り上げてきました。これは古典の訓詁においても重要な文型です。「主格が」こそが日本語文法の独自で重要な要石だ、などという国語学の残照に引きずれない日本語文の構造科学の樹立こそが漱石を引き継ぐことになります。
・春ならば、あけぼのがいい。
・象は体が大きいものである。
・先月は、やっと梅がさいた。
・今は桜が咲いている
・これからは、あじさいが咲く
・私ならば、うなぎ重を撰る(I)
・私ニならば、うなぎ重がいい(for me)


ようするに、動詞文では【は・を文】をしっかりモノにすること。
・うなぎ重ならば私が頼んだ物だ(for me)
(・花子は桜が好きな子;両義文)
・私、花子は桜を好む
・私、花子はあじさいが咲くのをまっている。
・私、花子はあじさいの咲くのをまっている。





【は・が文】
【は・を文】
=================
2012.5.27追記
この間色々考えてきて、結論としては以下の両文が漱石の頭にあったものではないかと考える。
  ・I ,a cat, have no name yet.
      寄る辺ない猫一匹でございますので、名はまだございません。
  ・I ,the cat, am too young to be named.
     今をときめく猫の一族に間違いはございませんが、名乗るほどもない未熟者でございます。








=================