「役割語」よりも大事な「場面状況語」

   「辞書の三省堂」は、関西言語学王国の商品「役割語」の普及定着に熱心なようである。だが以前に書いたようにもっと大事な「場面状況語」に無頓着な学者先生に頼っていては成功はおぼつかない。
「ミセ屋・メシ屋・洋食屋・ファミレス・居酒屋」 ;http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20100617
「判断・断定(1);語末〈のです・んです〉」 ;http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20120320


   三省堂の直近のホームページには以下のような文章が掲載されている

ここで「現場性」と呼んでいるものは、これまで「直示性」や「指標性」という名で知られていたものと変わるところがないし、それを「現場性」と呼び変えているのも、わかりやすさを考慮した便宜的な措置にすぎない。だが、この呼び変えに実質的意義がまったくないというわけではない。
私が言いたいのは、言語と発話現場の関わりは、これまで考えられているよりももっと幅広く、多様だということである。そして、そのことを示してくれる語句の一つが終助詞「よ」である。もっともそれは、我々が話し手のキャラクタ(発話キャラクタ)を認め、それに応じた話し方(役割語)を認めなければ見えてこない。

「補遺第12回 現場性について」 ;http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2012/07/08/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%81%8F%E3%82%8A%E8%A3%9C%E9%81%BA12%E7%8F%BE%E5%A0%B4%E6%80%A7%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/


    じつはこの稿には二つの異なる内容が併記されている。終助詞「よ」については別にに論ずるとして、ここでは以下の2事例を対比した考察を取り上げる。
1、給湯室を何気なくのぞいて、ポットの口からさかんに湯気が出ている時に「あ、お湯が沸いた」とは言えない。
2、小学生の夏休みの自由研究報告では「シリウスBは数十万年前に白色矮星になりました」と、過去の変化を「た」で言い切れる。
    この先生が商売上手なのは、「両対」という四元型から斜めの一対をとりだして、比較する方法、というより「手品のトリック」にある。人生経験の少ない大学生であれば幻惑されて、怪しいと感じて近づかないか、人気教師としてあがめるかの両極の反応があり得るだろう。後者の学生は成績優良につき三省堂などの大手教科書会社に就職するのが有利になるだろう。『'ささやく恋人、りきむレポーター』を上梓している広辞苑岩波書店は後者の学生しか採用しませんと宣言している rareもの株式会社である。


   さて、まず、給湯室の事例では「何気なく」が手品のトリックなのである。だから「何気なく、ではない」場合と比較対照しなければならない。
1−1;沸くのを今か今かと待ち構えている人ならば、「やっと、沸いた」と発語する。
1−2;沸こうがどうしようか自分の問題でないと思っていたら「あ、沸いている」と発語する。
   とうぜん、次の展開も異なるはずだ。
1−1女;「お湯が沸いたのでお茶を入れました。お待たせしましたね」と発声する。
1−2女;「誰かがやかんをかけっぱなしにしたらしくお湯が沸いていたわよ」と発声し、「消しといたけど。誰かしら。いやーね」と心の中で発語する。
1−1男;「やっとお湯がわいたか」と発語し。「さあ、ラーメンを作るぞ」と自分に向かって発声する。
1−2男;「給湯室でお湯が沸いていたぞ。危ないしガス代がもったいないじゃないか。気をつけろよ。」と上司風をふかす。

動詞の活用形については、役割やキャラクタのような固定したもの、あるいは話し手ー受け手のような相対関係ではなく、事物objectに対する話し手の関心という状況が大事であることを抽出しなければならない。それを筆者は「場面状況」あるいは「場面状況を支える話し手の関心・心象」と名付ける。これは観念的な内容ではなく「待ち構える」「待ち受ける」など、具体的な態勢・体勢の裏打ちの有無と強く相関する。


  次の事例は「小学生」が手品のトリック。当然「小学生、ではない」場合と比較対照しなければならない。譬えば、「専門家の学会報告」など。ここでは英語学の「verb of propositional attitude 」.つまり中右実が、『認知意味論の原理』で抽出した「〜と思う」とか「〜という」などの部分の省略形として考察すべき。
   参考論考「ある実務者の論理」 http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/russell.pdf
2−1;「シリウスBは数十万年前に白色矮星になった」と某参考資料に書いてありました。
2−2;現在のところ、「シリウスBは数十万年前にハ、白色矮星になっている」と私たち専門家は考えています。
   当然、ここでも「小学生ー研究者」というような社会的地位ではなく、対象objectと話し手の関係、という話し手の関心のあり方の問題を抽出しなければならない。
    小学生はいろいろの資料を比較対照した体験はあるかもしれないが、命題の真偽について自ら関わった経験をもたない。つまり極論すれば小学生は伝令であり、研究者は命題の担い手であって、真偽をめぐる繰り返された身体経験を持っている当事者である。だが、それは「役割ーキャラクタ」のような固定したものではない。小学生の夏休み研究でも料理法の工夫とかになれば小学生でも当事者としての文章を書くことになる。
   もう一つ例をだすと、たとえば「日本は性役割分担意識の強い文化」であるとしても直示文の世界の文法までもが支配されているわけではない。お茶を入れる事が女性専用の役割であったとしても「お湯が沸くのを待ち構える」という心象は女性専用ではないからだ。あくまで話し手のその時々の関心があって、それに基づいて話し手の世界が編成され、発声・発語がつむぎだされていく。
   このことは「教師という役割」の下位に「女教師・男教師」というキャラクターを日本語では歴史的にも現在でもしばしば見かけることができるとしても、直示文を解析する場合には、それほど有効ではない。さらにそれを露骨に表したくないという名も無き大衆の良識が「て形」を普及させてきている。あまりに役割やキャラクタを強調することが性役割を固定し女性差別を助長する事になるのを憂えるものである。このような感覚は多くが男性でしめられている教育研究界と出版業界では気づかれていないと思う。だが進歩的と思われている岩波書店から上梓された本が取り上げている「りきむレポ-タ」の取り上げ方は女性アナだけを興味本位で取り上げているように感じられた。差別というのは差別された人間にしかかぎわけられないものであるとはいえ、筆者はこの著者に差別主義的傾向をかぎ取った。
   さて、話をもどすと、今回はふれないが「よ」に限らず、日本語の直示文における「終助詞」が果たす機能は今後さらに詳細に分析考察されていかなければならない。ただし四元型から恣意的に一対を取り出しての考察では言語学のいっそうの退廃をもたらすだけだ。あるいは四元型のくずれた三元型の、「度量衡」などを直接いじりまわしても有益な成果は得られない。
参照論考〈四字熟語「度量衡重」〉 ;http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/koujyuu.pdf


まとめると、

1の事例が主に直示文法であつかう事例で、2の事例は陳述文法で扱う事例。

    直示文は英語であれば引用符で囲まれるのが原則。
    陳述文は文脈を特定するためのverb of propositional attitude が省略されている形式が頻用される。
   いずれの場合も開く場合の技術向上にはverb of propositional attitude の語義を理解することが肝要。
      ex; "You should go out, Mary" said him. He ordered Mary to go out.

用語の整理
役割;鳥の目客観主義の語法
関心;虫の息直覚主義の語法
場面状況;役割か関心かという二項対立を避けるための言葉づかい
attitude・posture; 態勢、姿勢、身構え、判断、意見
直示文(会話体);文字を知らないで生きていた一膳飯屋の下女でも理解できる言葉
陳述文(書記体);江戸時代でも、高級料亭の女将として成功するためには身につけなければならなかった言葉
なお、終助詞の分析を成功させるためには「発話」の下位概念として「発声体ー発語体」を仮構する必要が出てくる。





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