metonymy【あいまい母音・アクセント母音】

  最近、放送大学で「正しいあいまい母音」についての講義が出てきたのでびっくりした。私が20年ほど前にアメリカ人の先生から習った時にはむしろ「細かい正確な発音にとらわれることなくアクセント母音を正しく発音する事に注力すべし」だと理解し、そして私自身については多大な成果を得ることができた。だが、確かに幾人かの熱心な学習者の中には学校英語とは違って響く「シュワ母音」にとらわれすぎて、私は不自然だと感じたが、その先生はほめていた。
   しかし、これは革新が不十分だと考えるべきだ。なにが不十分かというと、「単語還元主義」の解体が不十分なのである。それはとりもなおさず「辞書規範至上主義」の解体の不十分性とも考えることができる。
    たとえば最近電車の広告で見かけた「So what ?」は辞書で見る限りどちらの母音も「あいまい母音」ということはあり得ない。だが、実際の発声では二拍(モーラあるいはシラブル)である一つ語として取り扱うから、どちらかが「アクセント母音」になり、他方が「あいまい母音」となる。そしてそれによって意味が違ってくるようになっている。
1,SOwhat ? ⇔ だから、何?
2,soWHAT ? ⇔ それが、どうかした?
   もう一つ事例を見ていくと、さらに「アクセント母音」に注力して英語学習をする意味がわかってくるはずだ。ここで出てくる〈been〉は流行の外国人による会話教室で最初にカマされる日本の学校英語の劣悪教育事例。「ここで〈ビーン〉じゃありませんよ。〈ベン〉ですよ」と洗脳され、会話学校に多額の売り上げが立つことになる。そして会話学校特有の〈ベン語〉が見られるようになる。
1、 I, have been there.
2、 i HAVE been there.
3、 i've BEEN there.
4、 i've been THERE.

   だが、これも文脈に依存した「意味」がまずあり、それによってアクセント母音の位置が動き、それに伴って〈been〉の発音が両様に動く。だが、あいまい母音〈ベン〉の発音の方が頻度が高ければ訛転の方向としてアクセント母音〈ベン〉が広く観察されるようになるのは自然現象としては理にかなっている。

外国語教育でも自国語教育でも、大事なのは意味を読み取ることで、その為に明晰な発音と明瞭な言語を紡ぎ出す練習が不可欠なのであるが・・・

   ここで次に問題になるのがmetonymy〈明晰・明瞭〉。戦後すぐの教育が正しい発音を強調していた弊害を憂えた人たちが、言語相対主義運動という大きなうねりの中で、明晰な発音に対抗するべく明瞭な言語を志向する運動がおきた。その時の旗印が「schwaシュワーə」だったのであろう。それで、「正しい発音」は重要ではありませんというメッセージの浸透と学術用語〈schwaシュワーə〉についての研究の進行が並行して進んだ。
   ところが初期の研究者が去り、次世代の研究者が主流になると、最初の問題意識がうすれ、さらにすでに鬼籍にはいってしまった指導能力を失った先達に加上した学会集団が跋扈すれば、お題目だけが残って、山のような書籍と博士号が発行されていく。。。。
    そして言語学が音韻学に還元されて、明瞭な発言と明晰な発音の弁別がおろそかにされていく。なぜなら明瞭性は文脈あるいはTPOあるいは状況とそれに対する話し手の関心や心象に依存するので、書物化あるいは大教室での一方的な講義、すなわち教育産業にとっては魅力のない領域だからである。


   さて、最後に英語で開発された「あいまい母音」概念を日本語に適用して日本語を観察したならば、どのような現象をとらえることができるだろうか。「あなたは誰ですか」を例にアクセント母音のありかを考察してみよう。
0;あなたは誰ですか
1;あなたは誰です?
2、あなたは誰?
3、だれ?
4、Dahre?  →出現者について出現現象については疑問がなく、単に名前を訪ねている「発声体」
5、daHRE?  →出現者というより出現現象に違和感があり、出現の必然性を理解しようとする「発語体」



metonymy【明瞭な発言・わかりやすいものいい】
metonymy【明晰な発音・正しいものいい】
wiki「シュワー」;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%BC









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