デカルトの誤り

    ちくま学芸文庫の『デカルトの誤り;A.R.ダマシオ;田中三彦訳』は、もっと早くチェックすべきだったのだが、失念していた。今になって気がついたのは、訳者の書いた『原発はなぜ危険か』が世間の耳目をあつめて、どこかで私の検索網に引っかかってきたからであろう。
     デカルトについては以下のように何回か書いてきた。今回改めて自分の書いた物を読み返してみて、世間との距離を肯定的に確認した。
1,「デカルト;日本の学校理科教育における失われた輪」 http://homepage2.nifty.com/midoka/rika/IM00JUL.pdf
2,「「デカルトニュートン主義」と「文化記号論」と」 http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20070620/1182309651
3,「ある実務者の論理 p7、p15」 http://homepage2.nifty.com/midoka/papers/russell.pdf

原因の認識は結果の認識から導かれる

    『方法序説』のキモは訳者の谷川多佳子氏がつけた第一部の注18にある。当時は「関係・比例」の語義が「順序関係・量的関係」について分離されていなかったのである。デカルトの普遍数学は両者を弁別した上で統合するものであった。これを有名な「コギト」とだけ関連づけて、つまり矮小化して、あるいは思い込み還元して「心身二元論」と世間ではレッテルを貼っている。だがこの普遍数学はむしろ「空間・時間二元論」あるいは「外延・外挿二元論」と結びつけるべきである。
    さらに『方法序説』が隠している通俗科学に対する挑戦は、第三の規則「互いに順序のつかないものの間にさえも順序をつけてすすめること」を言い換えて得られるテーゼ「原因の認識は結果の認識から導かれる」にある。
     これは通俗仏教が好む「因果応報」や、「免罪符を買えば天国にいけるが買わないと行けない」などの当時の大セクトと真正面から対立するものであった。そしてデカルト自身膨大な著作は残っても、一番大事なこの発見は葬り去られることを自覚していた。その理由として、このテーゼがアリストテレスの著作を注意深く読んだ結果から偶然の機会にえた内容だからと書いている。つまりアリストテレスの膨大な著作が残っても忘れられるべきテーゼ、あるいは再発見を待つテーゼだからだと。
    だからこそ「乳母のことば」で、膨大な著作とは別にして、簡潔な『方法序説』を残したのである。それでも現在に至るまでデカルトへの誹謗中傷は跡を絶たない。だが、それらの書物が顧みられなくなっても『方法序説』は真実を求める人々に引き継がれていくはずだ。そのことはデカルトの膨大な著作についてもいえる。残るのは当時のフランスの地口で書かれた『方法序説』のみ。
     このことをデカルト自身が予見したかもしれないことを示唆するのが第11章で紹介される彼自身が撰んだとされる墓碑銘「うまく隠れたものが、うまく暮らした」。現在でこそ『方法序説』もりっぱな書物として岩波文庫に二回も訳者を変更して収載されているが、本書は地口で書かれたわけだから、当時のグローバルスタンダードであるラテン語で運営されていた王立学問所からは黙殺されていたわけで、直接には攻撃の対象にはならなかった。


良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである

    それではデカルト自身は、どこが最もうまく隠せた部分だと考えていたのであろうか。それは21世紀の日本の実態から考えても、そして当時の社会にかんする限られた学校で得た知識から考えても冒頭の警句であろう。好く言えば民衆主義、つまり民主主義、悪くいえばポピュリズムを掲げたのである。
    21世紀の現在、政治の世界ではそれは「多数決」還元主義のもと犯すべからさる原理となっているが、それを支えるのは科学の衣をまとった優秀な技術官僚であることが白日の下にさらけ出されてしまった今日日は、「良識」の再構築を迫れている。だからこそ、ノーベル賞に嬉々として囲い込まれている既得権益層にとって、本書は危険きわまりないバイブルなのである。
   そして良識の根源をデカルトは「乳母」というメタファに隠した。だから地口で書いた。それは悪意にとればローマ法王の掲げる「天にいらっしゃる全能の父」と対抗する地母神、あるいは聖母マリアとも重なりかねないメタファであった。ガリレオと一緒に破門されかねない危険思想でもあったし、反対にカルヴィン派からも弾劾されてもおかしくなかった。それにしてはうまくやったということである。
    そして100年後の日本列島では本居宣長が三教を退ける根拠として、その以前からあった列島に育まれていた良識を、『古事記伝』をはじめとする膨大な文献のうちに隠した。そして浄土宗にも国学にも敬意をはらった葬儀を奉行所にも届けて、鬼籍にはいっていった。生前は、当時の地口にちかい新古今調の和歌を数多く残した。最も有名な和歌は

志き嶋のやま登許々路を人登ハ々 朝日尒々ほふ山佐久ら花

    21世紀の今日、大方の評論家は、これを『古事記伝』と結びつけられていない。だが、これは人の一生を暗喩したのである。それは勅撰和歌集が掲げる四季の暗喩と逆順になっている。それにより人の一生は天為で、四季は人為であることを、そしてその人為の「際」こそが宣長生涯をかけた戦いの目的であったことを、わかる人には伝えるのである。
    このことを現代哲学風にいえば「存在論」から「現象論」へということであり、存在論が否定されれば因果律もあやうくなる。「しきい値」もあやしいということになる。それは技術官僚に取っては危険きわまりない思想ということになる。もちろん司法の根拠である背反命題も根拠をうしなう。「疑わしきは罰せず」が美しいのは「背反論理」が揺るぎなきものであることが前提にある。


我考える。ゆえに吾あり

    最後になったが上記の命題を訓詁するには、つまり厳密なテクスト・クリティークを行うときには、まず二つの対命題に変換して考察する。その上でデカルトの生涯をかけた全身の息吹を踏まえて択一するならば、蓋然性の高いのは2−2であることがわかるはずだ。
1,継起命題;デカルトは存在する。そしてデカルトは考える。
  1−2,逆序継起命題;デカルトは考える。そしてデカルトは存在する。(非文)
2,因果命題;デカルトは考える故にデカルトは存在する
  2−2,空間命題;考えるデカルトは存在するデカルトの部分である。
        (包含命題;これは犬である故に動物である)




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補足;関連する日本語例文
    このような面倒くさいことに日本人が自由なのは、話し言葉日本語が「因果文」を基本文型として推奨しないところからくる。
    私たちは主語が変わらない限り、述語を「て」で繋いでいく。語序を変えることは認められない。
・継起文;彼は、目を覚まして、のびをして、おきあがって、・・・・・・・。
     ところが、何かを挿入した途端、それは継起文ではなく判断文にかわる。それは逆序をつくりうる。それが因果文。
・判断文;彼は、目を覚ましたから、のびをして、おきあがって、・・・・・・・。
・因果文;彼が、のびをして、おきあがって、〜したのは、目を覚ましたからだ。

現代の日本語話者は、新聞記事になるような内容だと継起文を因果文として受け取りやすくなっている。だが、じつはここでは【テ・テイル・タ】の弁別が決定的になっている。
継起文;彼は広島で被爆しテから、癌になった。
  両義文;彼が癌になったのは広島で被爆しテからだ。

両義文;彼は広島で被爆しタ。そして癌になった。
  因果文;彼が癌になったのは広島で被爆しタからだ。

両義文;彼は広島で被爆テイルる。そして癌になった。
  因果文;彼が癌になったのは広島で被爆しテイルからだ

継起包含文;彼は広島で被爆した故に癌になった。
逆序包含文;彼はに癌になった故に広島で被爆した。(非文)





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