「なぜ日本人は社会科学を理解できないのか」

上は今朝の新聞に載っていた広告本の副題。本題は「日本語の宿命」。
   こういうのが、大っきらいな自虐史観注入本。
   こういうのが、大っきらいな自虐史観注入本。
   この人や、お仲間の内田樹先生は日本語の宿命に生きていて、そして「ハシズム批判」を展開し、池田清彦先生の応援をえて「地球温暖化キャンペーン」を陰謀だと日本語で決めつけていくわけだ。
    だが、そんなこと言い出したら「重量・質量」「量重・体重」もよくわかっていない理科教師は自然科学を理解できていないわけで、無益なmetonymyを使っているだけのこと。
    これは日本語の本質問題ではなく、漢字を受け入れてきた周辺文化圏に共通する問題で、それをどのように課題化するのかが現在問われているのである。だから、私のような老婆もいささかの時間と労力をつぎ込んで日々暮らしているのだ。
    そしてこの問題はたとえば書記言語を受け入れてこなかったタガログ語圏の人々には一見では異なる様相の困難として顕れているのであるが、問題を克服するためには日本人と日本語が苦闘してきた経験が必ず役に立つはずなのである。というよりそのような活動を言語学は生み出していかなければならないのである。








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