『斉藤茂吉全集11』 抜き書き 

     荷田在満(1706-1751)の『国歌八論』について調べ始めて、田安宗武の最初の歌の指導者であって、後に賀茂真淵に置き換えられたということをしり、『斉藤茂吉全集11;岩波1976』を繰ってみた。とりあえずのメモ。

田安宗武の歌】
 ・我妹子と 相ふしながら 朝な朝な 珍しみ見ぬ 朝顔のよさ
 ・山城の 井出の玉川 水清み さやにうつろふ 山吹のはな
 ・春雨は 音静けしも 妹が家に い行き語らひ 此日くらさむ
 ・武蔵野を 人は廣しとふ 吾は唯 尾花分け過ぐる 道とし思ひき
 ・三吉野の とつ宮所 とめくれば そこともしらに 薄生ひにけり
    「字余り」を気にしなくてもいいのかな、というのが新鮮な感想。「珍玩の心」


五人一首
    ここでも正岡子規伊藤左千夫の名前があがっている。12首選ぶのも難しいと注をつけながらの徳川から明治にかけての5首だという。
 ・さざ波の比良の山べに花さけば堅田に群れし雁かへるなり (田安宗武
 ・鏡山雪に朝日の照るを見てあな面白と歌ひけるかも (平賀元義)
 ・ちちのみの父に似たりと人がいひし我眉の毛も白くなりにき (僧愚庵)
 ・あづさ弓春になりなば草の庵をとく訪ひてまし逢ひたきものを (僧良寛
 ・瓶にさす藤の花ふさみじかければ畳のうえへにとどかざりけり (正岡子規


【あらしの歌】
    一年前の自分であれば以下のような記述になんの興味もわかなかったと思う。「支那の嵐字の影響を受けたる点もあるべけれど単に風又は山風と云いて可なるところに『あらし』などと用ゐたるは言葉の音調と意義を顧慮せざる罪にしてこれらの時代より歌は腐敗し初めたる也。」
    ここで茂吉が問題にしているのは「あらし」が「山気蒸潤」か「迅猛の風」かということなのであるが、ここでの氏の論運はわかりにくい。むしろ「迅猛の風」なのであれば「六甲おろし」「雪下ろし」「雪おこし」などが本来の日本語であることは当然だと思う。事実、関東平野育ちの自分にとって「あらし」などは歌語でしかなく、日常ならば「春一番」と「台風」が問題で、海釣りにでも行った時には「しけ」と言っていたように記憶している。「こがらし」だって、童謡で知ったのではないか。

      現在の私が「あらし」に聞き耳を立てるのは「後鳥羽院・順徳院」でしめくくる「宗祇抄」に対して定家が直接編んだといわれる「百人秀歌」をつなぐと同時に差異を明確にする俊頼の歌にかかわるからだ。
  ・うかりける人をはつせの山おろしよはけしかれとはいのらぬものを(宗祇抄・74番)(千載集/恋)
  ・やまさくらさきそめしよりひさかたのくもゐにみゆるはるのあはゆき(百人秀歌・番号不明)(金葉集・春)
    宗祇(1421-1502)と定家(1162-1241)の違いは政治の中心が京都からなくなってしまった時期と幕府が京都に戻ってきて、それが江戸まで再度出ていってしまうことを想像できなかった時代の違いにある。つまり「百人秀歌」はあくまで鎌倉幕府をことほぐ、少なくともその悋気にふれずに下級官僚である藤原一門の系譜と歌の道を残すことにあったし、宗祇では、それらをひっくるめて日本語の進化と深化に果たした「みそもじいちじあまりの短歌」の役割が終わったという認識を持っていたということではないだろうか。
    そうであれば、「清音妄想」、「は行妄想」だけでなく「あ段妄想」の象徴である「あらし」の取り扱いに注意を喚起しておく必要があった。
    【あらし⇔おろし】の人為性、わざとらしさに対する違和感をかぎ取るというのは言語感覚としては優れていると思う。だが、私はそもそも日本語について考え始めたのが度量衡表記の問題からだったので、むしろ人工性が分かりやすさ、おぼえやすさにつながっていると考えた。詳細は以下。
  「 音韻イメージからさぐる「度量衡」概念の推移 」
   http://midoka.life.coocan.jp/papers/otodoryoukou.pdf
    話を宗祇に戻すと、その代表作「三無瀬三吟百韻」は明らかに水瀬離宮、すなわち後鳥羽院へのオマージュとみるべきであり、古今集伝授を授かった正統な歌人であると同時に連歌の始祖である決意と見るべきであろう。
   当然俊頼の歌に出てくる「はつせ」は宗祇にとっては万葉集の1番をかざる雄略天皇泊瀬朝倉宮を連想させる。さらには以下も雄略天皇御製。当然、ここで出てくる「をぐらやま」は嵐山付近ではありえない。多くの解説書には場所不明とあるが、当時有名だった「巨椋池」との連想がおきるのは押さえようがない。そして明治になっての政治決着が「巨椋池」の近くに設置された当時のJRの「小倉をぐら駅」。微妙に「山ぬき」になっているのが、いかにものお公家決着らしい。
    夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かずいねにけらしも(万9-1664)
   というような事を茂吉が文字に残しているわけではない。当然だ。子規も死んでしまった明治の後期には勤皇の士風はすでに衰え、尊王のええじゃないか刹那主義者公家たちが闊歩している状況では京都の新古今集大事派と対抗することは危険だったはずだ。そして、21世紀の今も相変わらず国語教育は新古今集に加上した小倉百人一首を正課にして、来たばかりの外国籍生徒にまで暗記させてはしゃいでいる。


【すごき・すごく】
    西行についての論の中で彼が上記の語を使っていることが書かれていた。女手では「すざましき」と習った語を「屈曲」してしまったのか、と感心した。
   ・山ふかみ槙の葉わくる月影ははげしきもののすごきなりけり
   ・吹きわたる風もあはれをひとしめていづくもすごき秋の夕暮


【橘曙覧 たちばな あけみ 歌抄】
富山県国学者(1812-1868)で、富山市役所のそばに橘曙覧記念文学館まであるという。有名な一首は天皇皇后両陛下が1994年6月にご訪米の折、クリントン大統領が歓迎スピーチで、引用された「独楽吟」の一首「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」とのこと。
    茂吉によると子規がことのほか評価していたという。
   実は母方の祖父が富山県の橘家出身だとは聞いていたが、先日調べていたら富山よりは加賀にちかい高岡藩だったことがわかったばかり。それでやっと祖父の札幌農学校卒業論文が『旧加賀藩田地割制度 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993822/2』という名前だったことに得心したのである。ただし上梓されたときには盛岡藩出自の栃内家に養子に入った後なので姓が異なっている。祖父の父親は馬琴が好きで八犬伝から順に子供の名前をつけたらしい。祖父は禮次、すぐ上の兄は儀一。維新のあと津田仙に誘われて札幌にわたり、リンゴ園を開いたらしい。そのうち一度、高岡には行かなければと思っていたが、富山市にも立ち寄るべきなようだ。



【大堰河 おほゐかは】
    なお斉藤茂吉が「品ひくき」といっていた香川景樹の代表作を調べたら以下が出てきた。説明を見たら有名な枕詞「大堰河おほゐかは」を扱っていて、これにより京西・嵯峨の嵐山の渡月橋の上流・下流を「大堰河・桂川」と呼び習わすことになったとあった。それでせんべい屋の「小倉山荘」が権威性を持っていることに妙に得心した。これにより、歴史的に重要な宇治の「巨椋池・小椋山」を焚書坑儒することにほぼ成功したわけだ。
香川景樹; 大堰河かへらぬ水に影見えてことしもさける山桜かな (題詞;河上花)