動詞〈やる〉の多義性

    語源解析の時に最も注意しなくてはならないのは語義の両義性だ。たとえば以下の両義性について敏感でない人は語源も語義も文法も用語法にも研究で成果を上げるのは難しいと思う。

・いい加減

もっとも主語不要論に立たないならばsubject主語文とobject主語文によって一意にけっていすることが出来る。
・あいつはいい加減なやつだ
・この湯の温度はいい加減だ。
さらに「いい気」では語序によって一意になる。
・あいつはいい気なやつだ
・あいつは気のいいやつだ。


さて、本題にはいろう。
  動詞の「やる」の多義性が気になってきて、いくつか論考をしてきたが、今一自分でも得心できなかった。
   それが今年のお正月に娘が親戚のうちで祖母に向かって「おばあちゃん、お雑煮いただく?」と言った途端、祖母が「なんだね。若い人の日本語にはまったくもう。」と怒りだしたのである。母に言わせると「いただく」のは「神様か天主様向け」だというのである。娘はすぐさま「お雑煮もらう?」と言いなおしたのであるが、・・・。それで以下の論考を思い出し、再び気持ち新たに考え始めた。
「疑似逆語〈やってきた・きやがった〉〈やってやった・やりやがった〉http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20080515
「接遇表現;花に水をやる vs  花に水をあげる http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20101005


1(基)、きてやった(give)⇔きてもらった(get)
2(基)、きてあげた(give)⇔きていただいた(get)
1(逆序)、やってきた(努力)⇔もらってきた(get)
2(逆序)、あげてきた(give)⇔いただいてきた(get)
上の両文対を見てみよう。「やる」には日本語文法でいう「やり・もらい」だけでなく、「努力しておこなう」の義が隠れている。そこから「してやる」を経て〈やる・あげる〉が発生し、それぞれが〈謙譲・尊敬〉にほぼ対応して「やり・もらい」対となって一応の安定をみる。しかしそれには還元されえない事例ものこる。


結局、よく考えていくと、「きやがる」という卑語動詞が思い起こされてくる。両者とも「とうとう」という副詞があてはまることがわかると、それぞれが一意に「自分・それ以外」の主語をみちびく。
3−1、私は、とうとう、やって来た
3−2、あいつは、とうとう、来やがった。

次に、相互に背反する価値を意味する「かつ」「まける」「侵す」との組み合わせをみてみよう。
4−1、私はやっと勝った
4−2、あいつは勝ちやがった

5−1、×私は負けやがった⇔私は負けてやった(まけおしみ)
5−2、あいつは負けやがった(味方の評価だが、否定義)

6−1、私はとうとう侵してやった(能動)
6−2、あいつは侵しやがった(受動)


   ここまで来ると、やっと以下のような動詞の三層構造が見えてくる
「世話をやく・世話をする・×世話にする」
「勉強をやる・勉強をする・勉強にする」
「勉強時間をやりすごす・勉強時間をすごす・勉強時間にすごす」
「数学の勉強をやりとおす・数学を勉強をする・数学の勉強にする」
「料理をつくる・料理をする・×料理にする」
「カレーライスをつくりあげる・カレーライスをつくる・カレーライスにする」

焦点を意思決定時点にしぼると択一動詞文がみちびかれる
「お母さんは今晩はカツ丼ではなくて、カレーライスにする」
「今晩の僕のご飯はカツ丼ではなくて、カレーライスになる」

そして択一動詞は二元世界にある
「もうご飯ニするわよ」「そうか、じゃ、ご飯ニナルから手を洗ってこなくちゃ」
「まだご飯ニしないわよ」「そうか、じゃ、まだ遊んでいてもいいんだ」


   現在の学校文法は「他動詞・自動詞」の分別に熱心なあまり、動作の困難さ、清水の舞台を飛び降りるつもりの行為、あるいは動作主の能力や実績に裏打ちされた完遂への見通しなどが動詞運用には固着していることの取り扱いがおろそかになってはいないだろうか。
    あるいは「する・なる」への過度の関心というものが実は日常語における「できるのか・できないのか」と、それを取り巻く「担い手の能力の有無」とへの両無関心を日本語世界に蔓延させてきたのではないか。それが助詞「は」の取り扱いを粗末にもしてきているのだと思う。
参考
「動詞の可能形・終止形 http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20120530
「助詞対〈ならば・でも〉〈ならば・にも〉〈ならば・にでも〉 http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20111127





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