宗祇

    小倉百人一首なるものが実は定家の作ではなく、宗祇の作品なのではないか、という疑問とともにいろいろ考え始めているのだが、『宗祇;小西甚一』は参考になった。P59にある「頭のよく切れる、煮ても焼いても喰えないおやじ」との評は、私の予想を裏切らなかった。
    宗祇は定家に加上することで古典歌学の権威を身にまとって、ジリ貧だった歌門の経営建て直しを図るとともに、「連歌」を独立させることに成功したのであろう。学識だけでなく、なみなみならぬ経営の才覚があったということである。西洋の言語学者に准えるならば、ゲーテフンボルトに近い。当然 logistics がご奉公の中核にあるべき技術であることを重々理解していたはずである。なによりも彼が「古今伝授」を受けたのは通称東野州なる武将・平常縁からだったのだから。
    では、その新しさは何か?
    では、その新しさは何か?
【憂し】 続けて「憂し」にはなやかさを与えたことが一点だと書いてある。その道具が「山吹の花」であったとも。
【文と地のバランス】 ここで今まで翻訳言語学で使ってきた「図と地」「文と文脈」は「文と地」へと変換させられるが、言いたいことはわかる。心敬と対比しながら宗祇はけっしてはなやかな句を苦手としたわけではなく、はなやかな句は地味な「地」の確かな句をえて耀くことを知っていて、さらにそういう確かな句を苦もなく作る能力が宗祇にはあったという。
【筋あい】それを芸術論のレベルでまとめれば奇を排して誰でもがわかる平明な合理性をといている、となる。だが、これではあまりに当たり前すぎてお神輿として担ぐには物足りないということである。だが、その内容は、連歌の発達段階から説き起こし、継ぎ句重視、一句重視を経てようやく「つけ句」の関係性重視が実現してきてると説明している。そういう観点から見ていけば、宗祇の句は、目立ちすぎることがないが、たぶん欠ければ全体が崩れてしまう「かなめ」となっているという。


    さらに参考になったのは、源氏物語古今和歌集をふまえたイメージの交響楽を演出しようとしていたのではないかという指摘である。たとえば「青柳の糸」となれば出てくる句は同質であり、同質でなければならない。逆に言うならば、珍奇な「青柳の糸」は排除される。これでは坐主によっぽどの才能がなければ有為人を集めることは難しいであろう。それを補うためには競技スタイルを導入することで、実際盛んに行われた。それが少し前の俳句の場でも生きていた。
    と、同時にそういう大事な歌語も、実際にそれを見たことがなければ、詞から魂が抜けていくことにも気がついていた。だから旅をした。小西氏は、ここで歌語とだけ関連付けているが、私は「羇旅」という概念の探求が重要視されていたとはっきり言及してもよかったのではないかと考えた。


逆語序対「道筋・筋道」「地の文・文と地」
擬似逆語序対「筋あい・おい筋」
擬似逆語序対「かなめ・なかま」


逆語序対「子が母・母と子」「我が父・父と我」



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