『靖国史観』

   NHKは最近国際環境重視の日本史を取り上げている。ここで足利義満の特集に出来たコメンテーターがよかったので図書館で二冊借り出してきた。『靖国史観』と『父が子に語る近現代史』。後者にあった「自虐史観」を「自慰史観」と置き換えるのも手だれである。司馬史観の取り上げ方も評価できる。
    が、途中にはさまれた文系といっても自身の出身である文学部の水準を給料の問題に還元しているのはいかがなものであろう。


    明治政府というか、国家にとっては国土国民の保全が最大の関心であり、それは「今現在」へと焦点化する作業に還元される。そのためにまず医学部と法学部を作ったのは当然だと思う。藩校との大きな違いは、この医学部を抱え込んだことにある。
     問題はここからで、法学部も医学部も排外尊崇史観にたって儒者御殿医の土台にある漢文と和文焚書坑儒したことであろう。それは東京藝術大学には西洋の絵画と音楽の課程しかなかったことでわかるように、帝国の建立時には予想だにできなかった推移だった。狩野派を擁していた日本画武家女性のたしなみでもあった筝曲は別として、最近になって竹を接いだように三味線が導入されたが、それは世界の民族楽器のひとつとしてであって、日本の伝統とは切り離されている。
    しかし伝統を断ち切る、ということも必要ではあった。だが、それが軍部のとりわけ若い世代の暴走を抑えきれない事態にまでなっていった。そして、占領軍がさらに大きな伝統の破壊をしていった。なぜならばアメリカは何回か伝統の断ち切りを成し遂げてきたからだ。
     それを可能にしたのは英語で統一されていたことと、聖書の文言を共有していたことだ。


     問題は日本には共通言語があるのか、ということだ。
     当時のアメリカ人はエリートが英語を漢文の代わりに身につければいいジャンと考えていたのだろう。今になって、それを民衆レベルで実施していようとしている。スペイン語公用語になっても、英語が東部の六大学卒業レベルに達している人間だけをエリートに登用すればいいのである。そのレベルとは、古典英語とラテン語聖書を含んでいるが、それらの習得をすべての民衆に押し付ける気もないし、民衆も牧師と弁護士に任せておけばいいと考えている。
    日本みたいにNHKのアナンサーの正しい日本語の見張りを引き受けようなどとそこらへんのおじちゃんオアバちゃんがしゃしゃり出たりしない。NHKもそういうくだらないご意見を尊重したりしない。なぜなら大事なのは「なにを、なんのために議論するのか」ということであるから。
     それでいて、「振り込み詐欺」とか「それをお金で買いますか」などという意味不明のスローガンや本の題名が平気で世間に出てくる。こいうことは東大の文学部の先生の給料が安からではない。もっと根本的的な策が求められている。そういう困難から逃げている人々、つまりは出来ないと思い込んでいる人々のの主張を私は「自虐史観」と呼んでいる。


それにしても、最近目にあまるのは「野郎自大史観」ではないだろうか。ひどいのがNHK。アナンサーの訛も解禁したまではいいけど、番組の内容がホントひどい。一番腹がたつのが、「クールジャパン」で、外国人を並べて、彼らに一票入れさせるという連歌俳諧のインフラを援用しているのだが、やっぱり坐主とその取り巻きが駄目だと、見るに耐えない番組になるという見本。
    ところが穏健な家人はいやでないらしく、夕食の時にはつき合わさせられる。先日はNHKの看板アナウンサーを取り上げて、外国のアナウンサーと違って、なんでもこなすところが日本の放送局らしさであり、すばらしさだという「野郎自大史観」を展開していた。お客さんである外国人がこういう座で正面から否定的な発言をするわけないのに、「無理やりすばらしい」といわせる番組は単純なNHKの番組告知にすぎない番組宣伝の15分番組よりさらに、悪質だと思うが、そういう意見はNHKに届かないのだろうか。
     こういうロジックに麻痺すると、結局台湾の人たちは日本の統治によって文明化されたことを感謝している、というような主張がまり通るようになる。
    なんか文意が支離滅裂になってきたので、今日はここまで。