耳なしスル

NHKのscholaという番組をみていたら、塚田健一氏が「みみなしスル」と云っていたように感じた。辞書には出ていないが「外界音を解釈して言葉に変換する」という意味に聞こえた。この語をえると「みみなし山」と「耳なし法師」の両語が緊密に関連つけられ得られる。
  それで市の図書館で『アフリカの音の世界』を借り出してきたら、p122に「聞きなし感覚」とあった。意味は想像通りでたとえば兄だけが死んでホトトギスになったので「オトトコイシヤ」と鳴くのだという民話が長野県にあるという。


もう一つ、ここで拾い物。(p52)
子どもに絵本の読みきかせをするのはわるいことじゃない。だけど、子どもはすぐ諳んじてしまう者。だったら、母親は絵本のないアフリカの母親のように、むしろバリエーションを用意して子どもをあきさせない工夫が必要ではないかと。確かに自分の知っているお話を聞かせてくと、毎回まったく同じということはありえない。絵本の読みきかせだけじゃ情操教育は不十分なのだ。


一晩寝たら、思い出したこと。
そういえば上の男の子は「読み聞かせ」はあまり好きではなく、「スカーリの自動車絵本」を一緒にぼろぼろになるまで読んだ。確か「golden bug」とかいう黄色の虫が各ページに一匹隠れているのを探しながら、一応のストーリーを展開する仕掛けになっていたはずだ。


聞きなし感覚があるならば聞きなし能力もあるでしょう。
   もう一つ思い出したのが子ども二人とも好きだった「お返しのお返し」という本。熊さんと狐の親子がそれぞれ、「お返し」を10数回、、繰り返すというたわいもないはなしなのだが、これが二人とも大好きで、さんざん読まされた。こちらは反比例してうんざりだったので、ある時「お返しのお返しのお返しのお返しのお返し」と繰り返すべきところを1回省いて読んだ。そのときの反応は二人とも、天地がひっくりかえったほどの騒ぎ方だった。
    つまり「回数を数える」ことができなくても「回数の同一性」に関しては大人顔負けの認識能力がすでに育っているということである。
    それと再現性への欲求という秩序感覚が、すでに育っているということもわかった。







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