「幸福な王子」か「幸福の王子」か

   日曜日の日経に「幸福の経済学」が取り上げられていて、「主観的な幸福感」に関する経済だとあった。これで今まで抱いてきた有名な小説の日本語訳の題名への違和感が一挙に意識に上ってきた。
    記憶では「幸福の王子」なのだが、今回あらためて検索したところ西村孝次氏の訳では「幸福な王子」となっている。そして氏の訳が正しい理由は二つあって原題が「Happy prince」であること。さらにワイルドの小説は多義性の宝庫であるのだから、日本でもなるべく多義的に訳すべきだ。二字漢字語の「幸福」ではどのみち和語でないからはっきりはしないが、「あいつは幸福なやつだ」といえば「何も知らないお馬鹿」の義がついている。そして事実、小説の内容自体「お目出度い王子」が銅像になってから見聞きしたことを書いている。
   ところが「幸福の王子」では、そういう多義性が消失し、むしろ「幸福たくさんの王子」の一義に還元されている。そこからは「幸福さの経済学」がいとも容易に導かれる。
    だが、これは「happy 幸福な」と「happiness 幸福さ」の間の無限の距離を無視した日本語の使い方だと思う。
   日本語でも英語でも形容詞を形式的に名詞化することは可能であるが、「めでたさ」「うれしさ」「おいしさ」「かなしさ」というものが計量化なじまないことは明らかであろう。これらは「今この瞬間」に関する用語なのだから比較などでできない。「昨日のうれしさ」と「今日のうれしさ」を比較は出来ないはずだ。敢えて言えば「めでたさも中くらいなり、を以ってよしとする」ことになる。
    計量形容詞でも数に関する「大きさ」「高さ;丈」「広さ;畳の数」だけは日常語として定着しているが、それ以外の「多さ」「重たさ」「小ささ」などは使いにくい。むしろ「あまみ」「ふかみ」「あかみ」「おもみ」などが使われる。これらは一対比較による過不足感に結びついている。



共通しているのは「一所懸命」か「一生懸命」かでもある。
前者であれば「一瞬に燃焼する」のであるから、合理的であるが、後者は「長時間燃焼する」の義であるから現実的ではなく、不合理なのである。後者を前者と同列同格に辞書に並べるセンスが私には理解不能である。



2013.3.27追記
今朝の朝日新聞にナカニシヤ出版の『幸福の人類学』の広告が載っていた。要約をみるとドイツのクリスマスと日本の正月を対比しているようだから「幸福な人類」でも十分だと思ったが・・・・・・。いずれにせよ、「冬至すなわち春の訪れ」と関係しているから、ドイツのような凍死する地域の方が民衆にとっても切実な祭りだったはずだ。とはいっても、民衆そのものにとっては本物の春、すなわち真性の春は、木々の芽吹き、いっせいに咲きほこる花々までまたなければならない。やはり、これは太陽神崇拝の先導者たちへの表敬とみるのがよいのではないか。





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