「しらべ」とは何か

   以前、「まこと ノ しらべ」について考えたことがあった。
古今和歌集・仮名序」を読み解く;喩とは愉 http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20130509


    今朝、twitterを見ていたら1997年の日本言語学会の発表に関連する発表があることがわかった・
http://www3.nacos.com/lsj/modules/documents/index.php?content_id=601
「今日は雨が降ります」と「今日は雨が降りません」の二つの発話について「今日は雨が降りま」まで聞いてどちらであるかが推定可能なことを証明し,二つの発話の差異がアクセントによるものでなくイントネーションの違いによるものであることと,普通の日本語話者がこのようなイントネーションに関して無意識であることを示し,そのようなイントネーションがどのようなものであるかを発話のピッチの抽出によって明らかにする実験音声学的研究」 荻野 綱男


   今頃とは思ったが、日本情報処理学界重鎮による発表であるから考察しておくのも無駄ではないだろう。なぜならばこれは尊敬する小松英雄氏の以下の記述に大きくかかわるからだ。
「〈まとまった意味をもつ内容を文字で書き表わしたもの〉を〈writing〉と定義し、それを〈書記〉と翻訳しました。A.Gaurは、〈すべての書記は情報の蓄蔵である〉と規定しています。」
   今まで、この記述はもう少し詳細に検討すべきではないかと考えてきたが、どこをいじればいいのか、考えあぐねていたが、これではっきりしてきた。
   問題は〈すべての書記は情報の蓄蔵である〉の逆は何かと言うことにある。
   すなわち、情報の蓄蔵のごく一部分が書記である事をともすれば忘れがちだということだ。人類の圧倒的に多くの情報は書記情報以外に蓄蔵されている。この立場を宣言したのがデカルトであり20世紀にはラッセルだ。思想史上の分類をするならば経験論、あるいは身体主義である。

上の例文を以下のように表記したら、まず初見では読み上げ不能であり、当然イントネーションなぞ望むべくもない。
あ;kefuhaamegafurimasu
い;kefuhaamegafurimasen
  日本語のできる英語話者ならば以下のように変形するだろう。
あ;kefuha amega furi masu
い;kefuha amega furi masen
この過程を反芻してみればわかるが、ここで結局は文字列を「しらべ」て「意味をとる」ことをすでにしているのである。
   だから分かち書きが可能になり、それにより文字列は音声の代替へと変質し終わっている。当然イントネーションは異なってくる。
   なぜならば現代日本語話者にとって「雨がふる」とは「傘を携行するかしないかの択一判断」と密接に関係しているからだ。 だから両文は以下のように強勢部分が分かれる。
あ;kefuha amega FURI masu(有効な新情報はFURU)
い;kefuha amega furi masen(全体として不必要な新情報)
    いの方の文を有効な新情報文にするためいは以下のように〈ga→ha〉におき変える必要がある。
変い;kefuha ameHA furi maSEN(有効な新情報はSEN)
   そうすれば、慣用的には文節内の〈ハ〉は一義的に否定句であるから、読み手も聞き手も「ふらない」を予定する。つまり元型としては以下の両文を日本語話者は身体内部に持っていて、そこから意味を組み立てる。
元あ;kefuha amega FURI masu(有効な新情報はFURU)
元い;kefuha ameHA FURI masen(有効な新情報は非FURU)
    ここで万葉集では否定詞が漢文同様、語頭に来る場合が多かったことを思い出しておこう。〈ハ〉が直接〈非〉からきていると現段階で主張するつもりはないが、頭の隅には入れておきたい。