情報命題・情報確度

midoka12013-10-15

  以下の続き。今性懲りもなく、繰り返されている「ビック・データ・サイエンス」に対して、私が提唱している手動多変量解析(枚挙法)の本質を理解してもらうのに参考になる論考(2007年)が出てきたので、未整理だけどアップします。
   「articulate と日本語・日本文化 http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20130816

    『古代日本語文法;おうふう 2007』は、現代文と古文の対比というしっかりした形式と豊富な文例によってわかりやすい構成となっている。だが、それによって実は既存の古文文法全体の論理的脆弱性がよく見えてしまう。ここに私は、論理的脆弱性と書いたが、そこのところが、今後この本を使うであろう若い人には、私もそうであったように、古文文法のわかりにくさとしてしか伝わらないだろうと考えるので、いくつかの点を指摘しておく。


●文の基本構成;階層性と回帰性と
      最初の章では、〈用言・体言〉〈主語・述語〉の対語が二つ併記されているが、外来語の元語が〈subject・verb〉であることが隠されているので英文法との関係が不明。その結果として、題説文の項目を別の章の中に置くしかなくなっている。そこでも〈主題・題説〉の元語が〈subject・predicate〉であることが隠されている。つまり英語では同一の音韻で示されている元語をあえて違う音韻に訳し分けた合理性の説明がないのである。
   さらに問題なのは英文法では〈subject・predicate〉は、〈主部・述部〉と教えられてきているのに、この点についての補足なしに〈主題〉という日常生活で既に別の意味を獲得している二次漢字語を独善的に導入していることである。その結果、以下の文例の相互関係がまったくわからない。
・象の鼻は長い。
・象の鼻が長い。(非文)
・この象の鼻は長い。
・この象の鼻が長い。
・この鼻は長い。
・この鼻が長い。
・鼻は長い。(非文)
・鼻が長い。(非文)
     これは、著者が階層性という古典科学の中核概念と回帰性という言語学の概念とに無頓着なところから来ている。ここでの本筋論ではないので両概念を重ねうる例文をいくつか提示しておく。詳細は成書を参照して欲しい。

階層性

・象は鼻が長いコトになっている。
・象が鼻が長いコトになっている。(非文)
・この象は鼻が長いと太郎は言っている。
・この象が鼻が長いと太郎は言っている。(文章では非文だが、会話では使われる)

・象(ハ/ガ)鼻が長いコトになっているコトガあると太郎ハ言っている。
・象(ハ/ガ)鼻が長いコトになっているコトモあると太郎ハ言っている。
・象(ハ/ガ)鼻が長いコトになっているコトハあると太郎ハ言っている。(非文)
・この象ハ鼻が長いと太郎ガ言っていると次郎ガ言っていると三郎ハ言っている。
・この象ガ鼻が長いと太郎ガ言っていると次郎ガ言っていると三郎ハ言っている。 

モダリティ

      これについては第5章全部をあてているし、それに値する重要な問題ではある。だが、ここでも外来語由来の元語を使う以上、英語での位置づけについてのざっとした見取り図は欲しいものである。
     著者は日本語のモダリティに関して以下の四つの文末例を基本形としてあげている。だが、この見取り図は日本語の成り立ちの一番大切な点を捨象している。すなわち文末の形式は基本的には用言のアルジたる体言を暗示する機能を持っていることをである。つまり英語でも重要な、そして多分すべての未開民族でも同様と考えられるところの〈話し手・聞き手・第三者〉についての情報が、日本語では文末の形式で与えられるという点である。この点を著者の例文と対比する形式で展開する。
著者の文末形
(1)a 留学するだろう。
(1)b 留学するほうがいい。
(1)c 留学しよう。
(1)d 留学するよ。
展開例
(1')a  僕は留学するだろう。(非文;無責任)
      君は留学するだろう。(非文;越権)
      あいつは留学するだろう。(assumption)
(1')b 僕は留学するほうがいい。(留学しない選択肢とを天秤にかけている)
     僕は留学sitaほうがいい。(結論がでているなら、「したい「と言うべき)
     君は留学するほうがいい。(留学しない選択肢との対比)
     君は留学sitaほうがいい。(自分の気持ちの表明)
     あいつは留学するほうがいい。(留学しない選択肢との対比)
     あいつは留学sitaほうがいい。(自分の気持ちの表明)
(1')c 僕は留学しよう。(自分の気持ちの表明。一般的には「と思う」などの文末詞くる)
     君は留学しよう。(非文)
     あいつは留学しよう。(非文)
     僕たちはは留学しようゼ。(文末呼びかけのゼ)
(1')d 僕は留学するよ。(判断、気持ちの次の段階の意思の表明)
     君は留学するよ。(非文;越権)
     あいつは留学する(らしい)よ。(presumption)
     あいつは留学する(んだ)よ。(未知情報の開示)
    このように展開してみると日本語話者が英語の習得で苦労する〈presumption・assumption〉の対語について、日本の学校教育は英語でも国語でもずさんであったことがよくわかる。もっともこの点については英語話者にも、識別能力を一般的に期待することはできない。それをショート・カットするためにモダリティを確度の割合に還元する文法説明がnativeによる会話教育を標榜する英語学校でもよく行われている。だが、会話では結論や情報と同じく大事なのは、話し手がどのような根拠を持っているかなのである。
  少し前までは、情報の信頼性を見計らうこと無しに、情報を鵜呑みにするなど、目に一丁字も持たない人々でも常識だった。だが、隅々まで行き渡った6歳からはじまる積年の識字教育が、情報の信頼性を吟味するという基本的力量を抑圧してきている。
    このことは、言葉文化の発達が、ある時期からは、〈長からの命令〉と〈部下からの報告・提案〉とが対になって発達してきたのだという作業仮説を置かないと見えてこない。だが、〈長からの命令〉だけが公式言語の規範だというassumptionにたつ文法体系を持っていると、このことは容易に見失われる。なぜならば〈長からの命令〉には根拠は不要であるからだ。だが公式言語において、〈部下からの報告と提案〉が重要な社会では〈presumption・assumption〉の対概念は間違いなく重要視される。その結果としては当然ながら、推量表現における見掛けの威勢のよさや自信のなさやなどの〈確度の割合〉は相対的に軽視される。
    これはおおよその言い方でまとめるならば、宮廷歌人と武士集団における文法規範の乖離と重なると見ていくことができるはずである。
   

●反実仮定と〈待つこと〉
    著者は用語〈仮想〉を用いて、英語文法との差異を強調している。そして、最初の文例として否定文を二つあげている。そのことによりこの文型の基本的な性質が見えなくなっている。p104。
(1)b 私が社長なら、こんな決定はくださないな。
(1)c あの時気づいていたら、こんな失敗はしなかったろう。
   上の文型をささえる著者の日本語観は、他のところで、〈願望〉〈希求〉を取り上げているのに、〈期待〉あるいは〈待つ〉と言う能動文を著者の体系から排除することにつながっていく。前の二者は失望と対ではないが、後ろ二者は失望とセットなのである。
    元来は、反実仮定はそういう素朴な人間のもっとも心の奥深いところにある期待と落胆があざなえる縄のごとく分けることのできない全体であると言う哲学、世界観を伴っている原初の形式なのである。原初でもあり、今日においても形式が意味を担保するという原則にのっとって、日本語ではミニマル・ペアで与えられる。以下で、しかも反実仮定文Bが〈真〉なのである(図を参照のこと)。

A)勉強すれば、合格スル。(:勉強する者ハ、合格する者に包含される)
B)勉強すれば、合格sita。(:不勉強siハ、不合格siニ包含される)
添付図参照

   上のAの文例は日常的には〈励まし文〉として親などが使うのが普通であるが、もともとは希望とか期待を述べたものであって、命題としては偽である。これを終止形文にすると実際には〈無情の予測文〉〈恫喝文〉となる。口語によく使われる〈たら文〉にすると〈自己満足文〉〈自己責任文〉が現出する。以下。
・勉強すると、合格する。(無情の予測)
・勉強siないと、不合格ニなる。(恫喝;真命題)
・勉強sitaら、合格sita。(自己満足文)
・不勉強sitaら、不合格sita。(自己責任文;真命題)

結局わかるのは、否定形を使わないと真命題を表現できないということである。

    〈無情の予測文〉は現在の文部省やマス・メディアが好んで使うのであるが、これは最も新しい文型である。長の使っていた文形が(恫喝;真命題)であり、奴婢が好んでいたのは(自己満足文)であろう。これは「宝くじを買ったら当たった」同様のナンセンス文である。真命題は「宝くじは買わなければ当たることはない」。
    最後の(自己責任文;真命題)こそが、奴婢から抜け出て〈長に対する報告と提案〉を行うようになっていった〈部下〉の文体であるとなる。そうすると奴婢時代以前に、現在のような否定形は未発達のまま、概念としての真命題が肯定形にのって、社会的に共有されていた時代が長くあったと考えざるをえない。
     上記のような通時的見取り図に無頓着なまま、著者が教科書を否定形の多用で通していることの逆説的な意味、すなわち〈presumption・assumption〉の重要性がきちんと伝わらない文法理論の様子が、p93の文例にも現れている。この文型と、それの性質をより顕著に示す展開例は以下。
著者の文末例
(1)a 失敗するはずがない。
(1)b 失敗しないはずだ。
展開例
(1')a  僕が失敗するはずがない。(驕り)
      君が失敗するはずがない。(皮肉)
      あいつが失敗するはずがない。(presumption)
(1')b 僕は失敗しないはずだ。(非文)
     君は失敗しないはずだ。(励まし/お世辞)
     あいつは失敗しないはずだ。(assumption)
(2')a  僕は成功するはずだ。(非文)
      君は成功するはずだ。(皮肉)
      あいつは成功するはずだ。(presumption)
(2')b 僕は成功しないはずだ。(非文)
     君は成功しないはずだ。(非文)
     あいつは成功しないはずだ。(assumption)
(3')  僕が成功しないわけngaない。(自信)
     君が成功しないわけngaない。(いやみ)
     あいつが成功しないわけvaない。(presumption)



  なお、(2)の文例には「ハ」が詰屈していることも見ておくべきだ。
(1)a 失敗するはず【ハ】ない。
(1)b 失敗【ハ】しないはずだ。



   このことは規範文型「やっていく」ではきわどい意味の差異をもたらす。基本文型を扱う時には注意が必要である。

道徳的に考えて、やって【モ】いい。
道徳的に考えて、やって【ハ】いけない。
物理的に考えて、やって【ハ】いける
物理的に考えて、やっていけない