水やりを かかせぬ朝に はぎの花

    これは恥かしながら、自分の句である。この句のできる半年前ほどから有馬朗人主宰の地域の句会に寄せてもらって、句作が心身をすり減らす大事業であることがわかり、会社員と母親業との三立は無理との判断をして、すっぱり止める決心をした時に、本部の撰に入った。
    地域の世話役の方は「これから活躍してほしい」と考えておられたようだが、わがまま言って退会した。それでもびっくりしたのは半年ほどは「5・7・5」が自然に口をついて出てきたことだ。
    一種の習慣で、脳内の回路が出来上がっていたのであろう。ようやく押さえ込んだというのが正直な気持ちだ。今でもあのときの疲労感をありあり思い出すことがある。

この経験がなければ『花衣 ぬぐるまぬぐや まつわる;田辺聖子』に共感することはできなかったと考えている。とすれば今現在の私の短歌逍遥も違ったものになっていただろう。
      西鶴芭蕉の句作とは、ほとんど格闘技のような体力勝負でもあったのであろう。もちろんその祖、宗祇の時代には武将たちが、戦陣内でも、合戦のあいまに行っていたのである。おなじ「手なぐさみ」といっても全く違う次元にあったのだと心しなければならない。