曼殊院門跡の弁天堂と天満宮

     BSフジで毎週やっている各地の寺院紹介は、学校でならった歴史を異なる視点で串刺しするのに役立つので欠かさずチェックしている。先週の京都の曼殊院門跡の紹介はとても有意義だった。
   というのは、中核の「大書院・小書院」が庭園に対し、それぞれ「平入り・妻いり」に配置されていた。これは現実には庇があって、実際に庭園にいってもあまりはっきりしないのだが、テレビでは上からの映像を流していたので、明確になった。さらに勅使門に向かって左手にある弁天池の中に「弁天堂・天満宮」が配置されているのだが、これも「平入り・妻いり」で書院に対して平行移動の関係にあった。
     参考地図;http://www.manshuinmonzeki.jp/keidai/index.html


    このことが何故大事かというと縄文遺跡の発達段階に対する江戸以前の人々の認識を知るヨスガになるからだ。東京都埋蔵文化センターの展示によれば以下のように推移したと考えられる。
    ・6500年前;平屋根、妻入り
    ・5500年前;縦屋根、平入り
    つまり、妻入りの方が列島の古層にあって、平入りの方が新しいということだ。もちろん新しいといっても千年単位で徐々に置き換わってきたわけであるから、遺跡を調べたら「混在」という認識になるのが相当とは考える。
    そして、これはそのまま伊勢神宮の中核が平入りで、出雲大社が寄せ棟入り妻である事と双比できる。現在の各地天満宮の庇は、曼殊院門跡の弁天堂に似た∩形のいわゆる唐破風の庇をもつ物が多い。だが、曼殊院門跡では∧の屋根が素直に見える妻入り様式である。
    つまり天満宮出雲大社様式をひきついで、道真公だけでなく、戦神あるいは八幡神をまつる古式が本来である事を明証している。これにより伊勢神宮の様式はルーツを機屋、つまり作業場にもつことを含意することができ、男尊一系の価値観と整合できる。一方、縄文竪穴住居に関する伝承があれば、平入りが大陸の影響を受けていて、漢文大事派の依り代であることも自明となる。
    さらに加えると湯島の天満宮には聖堂という中国文明を祈念する建物があり、これは平入りである。もちろん多くの仏教寺院の金堂は平入りである。こう列挙しておくと千木があってもなくてもどちらの系統かがわかる。
これが桂離宮の建立者である八条宮家初代の智仁親王(1579年 - 1629年)の親王である良尚入道親王によって定立されたということも重要である。場所も修学院離宮の直ぐそばで天台宗比叡山の麓なのである。しかも現在でもそうであるが桂離宮修学院離宮宮内庁の管轄化にあって、庶民が気軽に拝観はできない。ところがこの門跡の外にある弁天島は庶民が気楽に立ち寄れるようになっている大衆教化のツールである。
    つまり、徳川幕府公認の歴史認識と考えても良いということだ。
    このことを前提とするといくつかの歴史語彙もきちんと整理できるようになる。

天満宮   弁天堂∩
妻入り   平入り
出雲大社   伊勢神宮
スサノヲ   アマテラス
農耕   機屋
外働き   留守宅
羇旅   四季


追記;
【牛車と籠の出入りの違い】
平安時代には出入りは家ならば妻入り形式だが、時代劇にでてくる大名・旗本たちは平入り形式とみる。





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