狂言の題名

   先日、熱海のMOAで行われた能狂言を鑑賞した。能「邯鄲かんたん」はストーリーもテンポも現代人の感覚にあっていて堪能した。だが、狂言「なりあがり」の方はパフォーマンスはそれなりの工夫があってよかったが、ストーリーは解説を読んでもぴんと来なかった「成り上がり」「綯いあがり」「縄ぬけあがり」の微妙なずれをたのしむのであろうか。
    ところで、狂言の題名は日本語を考える上で有意義なものが多い。「二九十八」というのもそれである。だが、ウエッブでの解題をみても現代人にはぴんと来ない。言い訳としては推理小説のネタバラシはエチケット違反、ということであいまいにしてあるのかもしれないが、受け手の持っている素養が違ってきているのだからもっと丁寧な解説が欲しい。
    これはいきなり九九算とのみ関連付けてしまっては面白さは分からない。これは数、特に整数はその「なりあがり」の経過をどのように考えるかというマルチ正解の世界に属しているという前提を共有する必要がある。
   「アド」が口頭で提示した鍵語「にく」を数字解とすれば「29」が求まるのは、まあいいとして、それは少なくとも「2*9」「2+9」「整数29」の三つの可能性を持っている。後ろの二者は素数であるが、シテが求めた「2*9=18」は再度分解して「18=3*6」を得ることができる。
     このことをふまえないとこの狂言の面白さは分からない
     すなわち「3*6」から「弥勒菩薩」をまず導いておくべきなのである。
     さらに、ウェッブをみていくと弥勒菩薩の化身は「布袋様」ということになっている。
     つまり、受け手は「にく」の多義性と、「みろく」の両義性をふまえていてこそ狂言を堪能できる。
さらに付け加えると「18」は鍵語「いは」を導くことができる。これは口頭音では「いわ」となり、「岩」であるから、四谷怪談のヒロインの「お岩」と通底していく。これが母国語の日本語の重層性である。


   もう一つ「入間川」というのがある。この解説は入間川のあったとされる現狭山市の方のホームページに簡潔な解説が載っている。http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1159.html
    鍵語は「入間様」で、これは「いるまよう」と「いるまさま」の両様に読み下すことができる。いずれにせよ語義は「さかよう・さかさま」。ということで「語義を必ず反対に解釈すべき」というルールで掛け合いをやって応酬の勝敗をみていく。
    なぜ入間川が逆流するのかについてもすばらしい考察が紹介されています。http://pinhukuro.exblog.jp/19164666
    そこにあった画像をみると上方からきて最初にわたるときには右手が上流なのに、次に渡るときには左手が上流と、逆さになるからというのです。これを武蔵野国全体で俯瞰した図もアップされています。(ここでの荒川と隅田川は平安中世には弁別されたいなかったと考えた方がすっきりします。)
     しかし、両氏とも「伊勢物語」を引用されていないのは残念至極です。
    狂言の原典は「十段」に出てくる地名「入間の郡(こおり)、みよし野の里」です。
     整数「10」というのもいろいろに分解できますが、大衆教化において一番大事なのは「位があがる」「次は1へかえす」ということです。
     ここで「かえす」という語の重要性は古今和歌集を勉強していくと分かってきます。
     そうすると、「いるま」も「かえす」ことをしたくなります。
     「まいる」「まるい」の両様がえられます。
     「まいる」というのは身分の下の者が上位者のところに行くことですから、宮古の人が武蔵野国に「まりる」というのは逆語なのですね。だから面白い。
     だけど十段に置かれたのは「まるい」を導くためです。「もとに戻る」という義が第一。だから「みよし野」が出てくる。天武・持統朝にとっては神武天皇同様に、吉野をへてヤマト盆地に入ったことが大事で、この時代の正数は八だから、鍵語「吉野」からは「吉→きち→きっ→qi→七」を導いておいて、それでも現在の正数は「10」であることを確認する。そのために「みよし」で「3+7」を導いていく。
  「9+1」「8+2」「6+4」「5+5」ではなく、「7+3」を印象付ける大衆教化のツールが「伊勢物語・十段」。




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