「説文解字・六書」の解読法

『漢字;朝倉書店;2017』を手に取って「第一章;成り立ちから見た漢字」の「2節;漢字の構成」を読んでいて、「六書分析」に情報理論の観点が欠落していることに気が付いた。つまり、六書が高度に圧縮された文字群であることがわかっていないので訓読で処理しているのである。

 

先行研究から「象形、指事、形成、会意、転注、仮借」と整理しているが一番上にくるべきは「指事・指〈扌為〉」の対立によって、下位概念として「上下・前後・左右」と「会意・転注・仮借」がくるべきである。それぞれ、空間の3軸と漢字の造字法3種に対応する。

このような大上段の整理をするためには「指事」の中核に「外界の記述」という大命題があることを知らなければならない。理系の素養があればそれが「上下・前後・左右」であることは自明である。

 

その中で幼児でもわかるのが「前後」で、人間の身体は前進するようにできているし、自分が前をむいて前進すれば背中も自動的に前進する。そして幼児は母親のあとを追って成長していくわけだから前進するときには母親なりの大人の背中を見ながら行動する。だから「従前向後」ということが自明の熟語になる。だがこの運動を外界の事象になぞらえて共有化を図ろうとすると、何がふさわしいかは議論がある。六書では南天の太陽と月の運動へと転写したわけである。だから例字が「日月」となっている。それがそのまま合字「明」になっているのも合理的なこと。

 

しかしいつまでも幼児にあわせていては漢字の体系化は進まないので、やはり万物を支配する落下線を体系の中核にもっておく必要があるので一番目に例字「上下」を持ってきた。だが、垂直の落下線というのは抽象的で理解は難しいので、地形に関連づけた「川の上流下流」のイメージが必要だった。さらに「頭と足」を「上下」に対応させると動物の「頭としっぽ」はどうなるとか、議論は尽きなくなる。だから「視て識ることができ、察して意を見る」と注意書きを加えていて誤解が生じないわけではないと念を押している。だが、「左右」に比べれば「上下」の理解はやさしい。事実、4歳児でも自分の上と相手の上は手を上にあげて指し示す、指示できることを知っている。ところが自分で子供を育てたことがないとわからないが4歳児では自分の右手を相手の右手を指し示すことは難しいのである。つまり右手と右側を弁別するのはかなり高等な知的作用なのである。

 

だから社会的に共有するための言語技術の開発が要請された。それが「形声」ということで中国大陸にあっては誰でもが知っているもっとも有名な長江黄河にかけて「左右」の読みを固定しようとしたのである。長江黄河の上流に向かって立った時に左手の側に「江」を置いて反対に「河」と決めたのである。さらに上流を西として下流を東とすれば「南北」も決まる。こうして反対にあるものを「事を以って名と為し、譬えを取って相い成る」とすることにしたのである。

 

次の「指〈扌為〉」というのはこれらの概念を用いて官僚組織を運用していくための記号の増殖法をまとめたものである。その造字法の第一に「会意法」がくるのはこれも自明のことで、これによって「類を比して誼を合わせる」といっているのはまさに官僚組織とその職掌分担に齟齬をきたさないための類従(聚)概念の表記法をいっている。だからここでの例字は「武信」。単純にいって「武威信書」ということで文官と武官の両方を指事している。

 

五の転注は例字「老考」からわかるように「偏と旁」以外の部首、とくに「左上の挿頭」によって字数が増殖する以前の基礎概念をまとめている。「転注」については現代語ならば「転義註釈」が分かりやすいが、漢字の字形で説明しているのだから「転義注形」と理解したい。

・石圧反仄

・友左右有

老考者孝

・虎處虚虜

 

六についてはまず「指事・指〈扌為〉」の対義を理解できないと何がなんだかわからなくなる。つぎに「依声託事」によって一の「指事」へと返していることを理解しなければならない。その上で「三の形声」との違いは何か、と考えていく。そうすると例字「令長」が「長江黄河」や「左右」と違って対をつくらない概念であることがわかってくる。つまり「無限小・無限大」は対義では処理できないのである。ここで情報理論の素養が必須になってくるが数の歴史で大切なのは「進法」でコンピューターならば「二進法」で動くが、それ以外にもいろいろな数え方が現在でもある。現在は一日・24時間ということになっているが、古代の中国では100時刻で数えていたし、十進法なども比較的新しいと考えられている。共通しているのは最大数の次は0ないし最小数になるということで、たから「譬たとえ」をとることができない。これは「仮令;令へ返す」ということである。ここは難しいので古今集仮名序に例歌が載っている。日本語話者ならば勅撰和歌集の指事を受け入れるべきであろう。

 

・なずらえ(譬喩)歌;君に今朝あしたの霜のおきていなば恋ひしきごとに消えやわたらむ

・たとえ(仮令)歌;吾が恋はよむとも尽きじありその海の浜の真砂はよみつくすとも

 

こういう紛らわしい例示法を西洋修辞学では交差配語法という。

 

だから例字「令長」については音声に注目すべきと考えていくと「令レイ」「長チョー」だから「短音・長音」の対比で整理しようといっていることになる。

一般化するために「重厚長大」の音声「ジュー・コー・チョウー・ダイ」を取り上げると「大ダイ」ではないかと反論されるとおもう。だが、同字「夶=比」の存在をしっていると「重厚長は長音」、「夶=比は短音」という一般化を妥当と考えられるようになる。

 

「六書」の概要;『漢字学;阿辻哲次1985

周礼に、 八歳にして小学に入る。保氏、國子に教えるに先ず六書を以ってす。

一に曰く、「指事」、指事とは、視て識ることができ、察して意を見る。上、下是也。

二に曰く、「象形」、象形とは、画がきて其の物を成し、体に随って詰誳す。日月是也。

三に曰く、「形聲」、形声とは、事を以って名と為し、譬えを取って相い成る。江河是也。

四に曰く、「會意」、会意とは、類を比して誼を合わせ、以って指〈扌為〉を現らわす。武信是也。

五に曰く、「転注」、転注とは、類、一首を建て、同意相い受く。考老是也。

六に曰く、「仮借」、仮借とは、本、其の字無く、声に依りて事を託す。令長是也。