西洋修辞学でいう交差配語法について


説文解字・六書」の解読法;http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20171230」の続き

 

日本語ネイティブではない日本文学研究者の和歌観を知りたいと思って『心づくしの和歌;ツベタナ・クリステワ;2011』を手に取ってみたが、題名の通り日本人読者の期待を裏切らない構成であまり面白くなかった。だが、参考文献に『一般修辞学(一般レトリック学);大修館;1981』があってこちらは読みごたえがあった。といってもすでにレトリック論は日本語でもいくつか読むことができるわけで、一番目興味深かったのは「両義法―交差配語法―異義復用法」であった。

というのは、これが幼稚な言葉遊びや語呂合わせと隣りあっているからである。つまり二つの同音語がことなる語義を持つのかどうかは、ながながとした説明によっては説得できにくいから、古来言葉遊びのなかで援用されてきた。例文は三つ上がっている。

1;ローマは我らの陣営にあり、我らの陣営はローマにあった。(交差配語法)

2;心情は理性(la raison)が知ることのできない独自の理由(ses raisons)を持っている。(異義復用法/自家撞着)

3;(彼らは)またあなたのことを語る。灰をかきまぜながら彼らの炉と彼らの心の灰を(両義法)

このうちの交差配語法に関心をもつのは日本でも多くの慣用句になっているうえに折口信夫阪倉篤義らによって「逆語序」という問題意識になって定着しているからで、白川静の論考と合わせて議論したことがある。
古今和歌集・仮名序」を読み解く; http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20130518

 

それでは1の例文を子細に見てみよう。

1;ローマは我らの陣営にあり、我らの陣営はローマにあった。

ローマと陣営が逆序において成立しているということは数学用語でいう「合同」ということだが、現実にはありえない。だが、冒頭のローマを実際の都市ではなく「心のふるさと」と考えれば十分に成立する文となる。日本語では有名な「色即是空」がこの形式をとって与えられる。学校では前半の四字熟語しか習わないが、本文では逆語序の「空即是色」がくっついて四字熟語対として与えられる。他には「一切即全」も「逆も真なり」を示すためにこの形式をとる。これが論理の世界。

 

それに対して現実世界では「逆も真なり」は成立しない。「犬は動物だが、動物は犬とは限らない」。このような概念を論理ではなく類従、あるいは類聚という。

西洋哲学ではこれについても逆語序で陳述する。これが対偶ということで「犬は動物。動物でないものは犬ではない」となる。もちろんこの説明で十分なのだが、日本語話者の間でこういう文型が広まることはなかった。

なぜならば日本語では類聚概念は姓名によって代表され、対助辞「ハ・ノ」で識別することになっていたからで、「対偶」なんてものを持ち出さなくでも下々でも理解は容易だった。

・花子田中内だ  ・田中内花子だ

・犬動物内だ   ・動物内犬だ

この対助辞「ハ・ノ」を導入したのは大伴家持で、現実に日常会話においては助辞「モ」も大変便利であることは論をまたない。

4175   霍公鳥 今来喧曽无 菖蒲 可都良久麻泥尓 加流〃日安良米也 

毛能波三箇辞闕之

 

・犬クジラ動物内だ。   ・動物内犬、クジラだ。

 

さらに和歌世界では重要な規範が交差配語法によって示されている。それが古今和歌集・仮名序の「人まろは赤人が上にたたむ事かたく、赤人は人まろが下にたたむ事かたくなむある」なのである。類書でもその意図については不明のままになっている。単純化すれば「人まろは赤人の上ではない。赤人は人まろの下ではない」ということだから同格だといっていることになる。だが、その直前に「正三位」とされた「人まろ」と無冠の赤人が同格だというのは当時の宮廷世界においては許されない判断だったのであろう。近世から江戸期にかけては「人まろ」「ひとり」を尊崇する気風が和歌世界を席巻していく。